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== 国名 ==
トルコ語による正式国名は、{{Audio|Tur-Türkiye Cumhuriyeti.ogg||tr|''Türkiye Cumhuriyeti''|ュルキエ・ジュムフリイェティ}}、通称 {{Lang|tr|''Türkiye''}}(ュルキエ)である。
 
公式の英語表記は、{{Lang|en|''Republic of Turkey''}}。通称 {{Lang|tr|''Turkey''}}(ターキー。[[シチメンチョウ|七面鳥]]を意味する単語と全く同じ綴りおよび発音だが、文章の場合、国名の頭文字は大文字、七面鳥のは文頭に来ない限り小文字のため区別される)。
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政治は多党制の政党政治を基本としているが、政党の離合集散が激しく、議会の選挙は小党乱立を防ぐため、10 % 以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式をとっている。この制度のために、[[2002年]]の総選挙では、選挙前に中道右派・イスラム派が結集して結党された[[公正発展党]] (AKP) と、野党で中道左派系・世俗主義派の[[共和人民党]] (CHP) の2党が地すべり的な勝利を収め、議席のほとんどを占めている。[[2007年]]7月22日に実施された総選挙では、[[公正発展党]]が前回を12ポイントを上回る総得票率 47 % を獲得して圧勝した。[[共和人民党]]が議席を減らし、112議席を獲得。極右の[[民族主義者行動党]] (MHP) が得票率 14.3 % と最低得票率 10 % 以上の票を獲得し71議席を獲得、結果的に公正発展党は340議席となり、前回より12議席を減らすこととなった。独立候補は最低得票率の制限がなく、クルド系候補など27議席を獲得した。
 
[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]以来強行的に西欧化を押し進めてきたトルコでは、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍がしばしば政治における重要なファクターとなっており、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。[[1960年]]に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、[[参謀本部|参謀総長]]と陸海空の三軍および内務省[[ジャンダルマ]](憲兵隊)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議 ({{Lang|tr|Milli Güvenlik Kurulu}}) が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。[[1980年]]の[[9月12日クーデター|二度目のクーデター]]以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は[[1997年]]にイスラム派の[[福祉党 (トルコ)|福祉党]]主導の連立政権を崩壊に追い込み、[[2007年]]には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。8月29日には、議会での3回の投票を経て[[アブドゥラー・ギュル]]外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、軍が最早以前のように安易に政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と宗教的保守派の対立はもっと社会の内部にこもったものとなってきている(エルゲネコン捜査)。
[[2010年]]9月にエルドアン政権は憲法改正の国民投票を行う。この憲法改正は、現憲法は1980年のクーデター後に制定されたものであり、民主主義を求める国民の声や欧州連合(EU)加盟の条件整備のために行われる。
 
[[2009年]][[3月29日]]、自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党・公正発展党が世俗派野党・共和人民党などを押さえ勝利した。
 
[[2010年]][[9月12日]]には、与党・公正発展党 (AKP) が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。現憲法は1980年のクーデター後の1982年に制定されたもので、軍や司法当局に大幅な権限を与え、国民の民主的権利を制限するといわれてきた。この憲法改定案は民主主義を求める国民の声や欧州連合(EU)加盟の条件整備などを踏まえ、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなど26項目を提起している。国民投票の結果、憲法改正案は58 % の支持で承認された。投票率は 73 % であった。[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン]]首相は民主主義の勝利だと宣言した(AFP電)。また、国民投票結果について「発達した民主主義と法治国家に向けトルコは歴史的な一線を乗り越えた」と評価した。欧米諸国はこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合(EU) の執行機関欧州委員会は、トルコのEU加盟に向けての一歩だと讃えた<ref>[http://mainichi.jp/select/world/news/20100914ddm007030056000c.html トルコ:国民投票賛成多数、改憲承認 軍・司法の権限縮小] 毎日新聞 2010年9月14日</ref><ref>[http://www.cnn.co.jp/world/30000190.html トルコ、国民投票で憲法改正を承認 首相が勝利宣言] CNN 2010年9月13日</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100913/erp1009130912000-n1.htm トルコ、国民投票で憲法改正承認 世俗派との対立先鋭化も EUは歓迎] 産経新聞社 2010年9月13日</ref>。
外交面では、[[北大西洋条約機構]] (NATO) 加盟国として伝統的に西側の一員である。
 
また、外交面では欧州連合 (EU) への加盟を長年の目標としてきた。[[2002年]]に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。[[2004年]]には一連の改革が一応の評価を受け、条件付ではあるものの欧州委員会によって2005年10月からのEUへの加盟交渉の開始が勧告された。しかし、その後のEU加盟交渉はさまざまな要因から停滞している。
 
[[ムスタファ・ケマル・アタテュルク]]以来強行的に西欧化を押し進めてきたトルコでは、その歴史においてケマルをはじめ、政治家を数多く輩出した軍がしばしば政治における重要なファクターとなっており、政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。[[1960年]]に軍は最初のクーデターを起こしたが、その後、[[参謀本部|参謀総長]]と陸海空の三軍および内務省[[ジャンダルマ]](憲兵隊)の司令官をメンバーに含む国家安全保障会議 ({{Lang|tr|Milli Güvenlik Kurulu}}) が設置され、国政上の問題に対して内閣に圧力をかける実質上の政府の上位機関と化しているが、このような軍部の政治介入は、国民の軍に対する高い信頼に支えられていると言われる。[[1980年]]の[[9月12日クーデター|二度目のクーデター]]以降、特にイスラム派政党の勢力伸張に対して、軍は「ケマリズム」あるいは「アタテュルク主義」と呼ばれるアタテュルクの敷いた西欧化路線の護持を望む世俗主義派の擁護者としての性格を前面に打ち出している。軍は[[1997年]]にイスラム派の[[福祉党 (トルコ)|福祉党]]主導の連立政権を崩壊に追い込み、[[2007年]]には公正発展党による同党副党首の大統領選擁立に対して懸念を表明したが、この政治介入により国際的な非難を浴びた。8月29日には、議会での3回の投票を経て[[アブドゥラー・ギュル]]外相が初のイスラム系大統領として選出された。この結果、軍が最早以前のように安易に政治に介入できる環境ではなくなり、世俗派と宗教的保守派の対立はもっと社会の内部にこもったものとなってきている(エルゲネコン捜査)。
 
[[2010年]][[9月12日]]、与党・公正発展党 (AKP) が提起した憲法改定案の是非を問う国民投票が実施された。その結果、58 % の支持で承認された。投票率は 73 % であった。[[レジェップ・タイイップ・エルドアン|エルドアン]]首相は民主主義の勝利だと宣言した(AFP電)。また、国民投票結果について「発達した民主主義と法治国家に向けトルコは歴史的な一線を乗り越えた」と評価した。
 
{{要出典範囲|現憲法は1982年に軍が定めたもので|date=2012年2月}}、軍や司法当局に大幅な権限を与え、国民の民主的権利を制限するといわれてきた。憲法改定案は、司法や軍の政治介入を押さえ、国会や大統領の権限を強めることなど26項目を提起している。
 
欧米諸国はこの改憲国民投票結果を歓迎している。欧州連合(EU) の執行機関欧州委員会は、トルコのEU加盟に向けての一歩だと讃えた<ref>[http://mainichi.jp/select/world/news/20100914ddm007030056000c.html トルコ:国民投票賛成多数、改憲承認 軍・司法の権限縮小] 毎日新聞 2010年9月14日</ref><ref>[http://www.cnn.co.jp/world/30000190.html トルコ、国民投票で憲法改正を承認 首相が勝利宣言] CNN 2010年9月13日</ref><ref>[http://sankei.jp.msn.com/world/europe/100913/erp1009130912000-n1.htm トルコ、国民投票で憲法改正承認 世俗派との対立先鋭化も EUは歓迎] 産経新聞社 2010年9月13日</ref>。
 
== 軍事 ==
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== 国際関係 ==
{{Main|トルコの国際関係}}
外交面では、[[北大西洋条約機構]] (NATO) 加盟国として伝統的に西側の一員である。
 
また、外交面では欧州連合 (EU) への加盟を長年の目標としてきた。[[2002年]]に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。[[2004年]]には一連の改革が一応の評価を受け、条件付ではあるものの欧州委員会によって2005年10月からのEUへの加盟交渉の開始が勧告された。しかし、その後のEU加盟交渉はさまざまな要因から停滞している。
 
== 地方行政区分 ==
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[[1990年代]]の後半から経済は低調で、政府は巨額の債務を抱え、国民は急速な[[インフレーション]]に悩まされている。<!--[[1994年]]1月を100とする卸売物価指数で、[[2001年]]1月は2686.8、[[2002年]]1月は5157.4、[[2003年]]1月は6840.7、[[2004年]]1月は7576.5であった。{{要出典}}-->歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し、[[2000年]]から[[国際通貨基金|IMF]]の改革プログラムを受けるに至るが、同年末に金融危機を起こした。この結果、トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。<!--リラの[[変動相場制]]移行をおこなった[[2001年]]にはリラの対[[ドル]]価が50 % 以上暴落、実質[[国民総生産|GNP]]成長率はマイナス 9.4 % となった。-->
[[ファイル:100 YTL ön.jpg|thumb|right|100トルコリラ]]
[[2002年]]以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は 5 % 以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権のもとでインフレの拡大はおおよそ沈静化した。[[2005年]]1月1日には100万[[トルコリラ]] (TL) を1[[新トルコリラ]] (YTL) とする新通貨を発行し、実質的な[[デノミネーション]]が行われた。なお[[2009年]]より、新トルコリラは再び「トルコリラ」という名称に変更されている
 
=== 貿易 ===
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こうした経緯もあり、長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず、トルコ政府は、国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い、国民はすべて[[トルコ語]]を母語とする均質な「トルコ人」であるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると同時にその時に、トルコにおける[[少数民族]]とは非イスラム教のギリシャ人、アルメニア人、ユダヤ人の三民族であることを定義した。しかしながら、実際には共和国成立以前から東部を中心に[[クルド人]]をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず、現在では、民族的にトルコ人ではない、あるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるものの、それらが少数民族とは認知していない。
 
少数派の民族としては、[[クルド人]]、[[アラブ人]]、[[ラズ人]]、[[ギリシャ人]]、[[アルメニア人]]、[[ヘムシン人]]、[[ザザ人]]、[[ガガウズ人]]などが共和国成立以前から東部を中心に居住している。特に、クルド人はトルコ共和国内でトルコ人に次ぐ多数派を構成しており、その数は1,400~1,950万人と言われている。かつてトルコ政府はトルコ国内にクルド人は存在しないとの立場から、クルド語での放送・出版を禁止する一方、「山岳トルコ人」なる呼称を用いるなど、差別的に扱っていた。しかしながら、現在では少数民族の存在を認める政府の立場から、山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。実際問題として長年の同化政策の結果、今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送・出版も公に解禁され、旧民主党(DEP : 共和人民党から分離した民主党 (DP) とは別組織)レイラ・ザーナ党首の釈放と同日に、国営放送である[[トルコ国営放送|TRT]]の第3チャンネル (TRT3) においてクルド語放送が行われた。2008年末には24時間クルド語放送を行うためTRTに第6チャンネルが開設され、2009年1月から本放送を開始した<ref>[http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20090102_143354.html TRT6(クルド語チャンネル)、ロジンさんらのコンサートで正式にスタート] - 2009年1月2日付 Zaman紙の翻訳(東京外国語大学のページ)</ref>
 
なお、クルド人はいわゆる北部[[南東アナトリア地域]](南東アナトリア地域)にのみ偏在しているわけではなく、地域により格差はあるものの、トルコ国内の81県全域にある程度のまとまりを持った社会集団として分布している。実際、クルド系政党民主国民党 (DEHAP) はトルコ全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降は全国的な農村部から都市への移住が増加にともないクルド人も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降もっとも多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブル県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における[[大衆政党]]として[[草の根]]活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつける見方も存在する。
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宗教構成は、宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると、人口の 99 % 以上がムスリム(イスラム教徒)である。一方、各宗派に関しては、身分証明書にその記載事項がないことから、宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その結果、一般的にはムスリムを信奉するトルコ国民の大半は[[スンナ派]]に属するといわれているが、一方で同じイスラム教の中でマイノリティである[[アレヴィー派]]の信奉者がトルコ国内にも相当数存在しているとの主張もあり、一説には 20 % を越えるとも言われている。
 
その他の宗教には[[正教会|東方正教会]]、[[アルメニア教会|アルメニア使徒教会]]、[[ユダヤ教]]、[[カトリック教会|カトリック]]、[[プロテスタント]]などが挙げられるが、[[オスマン帝国]]末期からトルコ共和国成立までに至る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。
 
一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者である[[コンスタンディヌーポリ総主教]]は[[イスタンブル]]に居住しており、[[正教徒]]がごく少数しか存在しないトルコに東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。トルコ国内にある東方正教会の[[神品 (正教会の聖職)|神品]]を養成するためのハルキ神学校は[[1971年]]から政府命令によって閉鎖されており、東方正教会へのトルコ政府からの圧迫の一つとなっている。
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トルコの伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受けあいながら発展してきた。
 
[[トルコ料理]]は[[ギリシア料理|ギリシャ料理]]や[[歴史的シリア|シリア地方]]の料理([[レバノン料理]]など)とよく似通っている。またイスラム教国ではあるが飲酒は自由に行われており、[[トルコワイン|ワイン]]や[[ビール]]の国産銘柄が多数ある。
 
伝統的な[[トルコ音楽]]のひとつ[[オスマン古典音楽]]は[[アラブ音楽]]との関係が深く、現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くは[[オスマン帝国]]の帝都イスタンブルに暮らした作曲家が残したものである。