「ウィーン美術アカデミー」の版間の差分

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Andee (会話 | 投稿記録)
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[[1725年]]1月20日、[[ハプスブルク家]]の当主[[カール6世 (神聖ローマ皇帝)|カール6世]]は宮廷画家[[:en:Jacob van Schuppen|ジャコブ・シューペン]]を新しい文化教育の総監に任命して、シュトゥーデル死後に解散されていたウィーン美術アカデミーを再開させた。更に[[1751年]]には[[マリア・テレジア]]の命令によってアカデミーは近代的な教育機関として再編され、高い名声を持つアカデミーへと成長した。[[1767年]]、皇女[[マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ (1683-1754)|マリア・アンナ・ヨーゼファ・フォン・エスターライヒ]]らによって最初の[[名誉会員]]が選ばれた。
 
[[1772年]]に[[ヴェンツェル・アントン・カウニッツ|アトン・カウニッ]]帝国宰相による再度の改革が行われ、領内全ての美術教育機関を統合する存在へと発展した。名前も「帝国総合美術アカデミー」(vereinigten Akademie der bildenden Künste)へと改名されたが、後に「総合」の部分は撤回された。それから100年後の[[1872年]]には遂に皇帝[[フランツ・ヨーゼフ1世]]の同意を得て、帝国美術アカデミーを美術教育の最高機関とする布告が出された。[[1877年]]4月1日、シラープラッツに[[:en:Theophil Hansen|テオフィル・フォン・ハンセン男爵]]の設計による新しいアカデミーの建物が完成、今日に至るアカデミーの体制が確立された。
 
[[19世紀]]から[[20世紀]]初頭にかけて、アカデミーは新時代の美術運動である[[世紀末芸術]]に携わる多くの芸術家を輩出したが、その陰で入学に失敗した人物の一人が[[アドルフ・ヒトラー]]であった。[[1907年]]・[[1908年]]に立て続けて試験に落ちたヒトラーは貧しい絵葉書描き(主に[[水彩画]]であった)に落ちぶれ、正規の美術教育に対する強い復讐心を残す事になった。隣国[[ドイツ]]の独裁者としてオーストリア併合を果たしたヒトラーは[[退廃芸術]]追放運動を展開し、多くの[[ユダヤ系]]の[[画家]]や[[彫刻家]]がアカデミーから追放された。[[第二次世界大戦]]後、ナチの強圧的な統制から逃れたアカデミーは新生オーストリアで組織再建を模索し始め、[[1955年]]に政府から自治運営の許可を得て新しい出発を行った。