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'''源維義'''(みなもと の これよし、生没年不明)は[[平安時代]]の武士。[[源為義|為義]]十四男ともうが<ref>参考文献の1、21頁、巻百四十三・列伝七十・源 為義の項。</ref>、その人物像は資料が乏しく、詳細は不明。惟義とも書く。通称を松井冠者と称したとされ<ref>「維義称、松井冠者(尊卑分脈)」→参考文献の1、31頁、巻百四十三・列伝七十・源 為義の項。</ref>、子孫にこれを起源とする源為義流[[松井氏]]がある。この松井氏は[[山城国]]出身とされ、同国[[葛野郡]][[松井]]の出とう<ref>「松井氏は葛野郡松井より起る……」→参考文献の3、5577頁(「山城の松井」の項)。</ref>。
 
葛野郡松井庄は現在の[[京都市]][[右京区]]西院松井町であると考えられる<ref>参考文献の4、1024頁、「松院跡」の項。</ref>。為義の子供たちの多くは、[[保元の乱|保元]]・[[平治の乱]]に巻き込まれて戦死または処刑されたが、京六条堀河邸に父・為義と共には居らず、維義のように他所に居住した者や養子となった者もいた<ref>著者・奥富敬之は「……保元・平治の乱に参加せず無事であった源家の者もあった。」とし、掲げる為義以下の系図に維義を非死亡者として示している。→参考文献の5、175-176頁、</ref><ref>「…為宗居丹波称丹波冠者、為成居八幡称八幡七郎、為家称淡路冠者、頼定称加賀冠者……」、また「為家・義俊・経家・義成・僧頼憲五人皆養子也……」とある。→参考文献の1、30頁、巻百四十三・列伝七十・源 為義の項。</ref>。
 
また、西院松井町の域内にはかつて後院(天皇の隠居所)としての[[淳和院]]が存在し、[[淳和天皇]]の女院が隠棲の寺をその域内に建立してこれを松院と称したという。松院は後代[[松井寺]]と呼ばれ、この地の名称のもととなったとも云う。そして、淳和院は別当職を代々[[源氏長者]](当時は[[村上源氏]]が世襲)がつとめ、源氏にゆかりの深い施設であるが維義との関係性は不詳である<ref>参考文献の4、1023頁、「淳和院跡」の項。</ref>。
 
維義子孫の[[松井氏]]はこの後、山城国を中心に発展分岐し、室町期には[[松井康之]](武将)・[[松井友閑]](堺奉行)等を輩出した。系統としては、この康之の流れが[[室町幕府]][[御家人]]として足利氏に仕え、のち[[細川氏#和泉上守護家|和泉上守護家細川氏]]の[[細川幽斎|細川藤孝]](幽斎)に付属して[[肥後国|肥後]][[八代城]]主となる(但し、山城国[[綴喜郡]]松井出身説もあり)<ref>参考文献の3、5578頁、「八代家」の項。</ref>。また建武年間に[[足利尊氏]]に味方し、[[今川範国]]に属して山城国から[[遠江国]]に移住して[[二俣城]]主になる系統([[遠江松井氏]])があり、この二俣城主の系統から更に分かれて[[三河国]]に移住、三河で[[吉良氏]]・[[松平氏]]に属して[[江戸時代]]に至り[[江戸幕府|徳川]][[譜代]]大名や[[旗本]]なるもの[[三河松井氏]](松井松平家)<ref>参考文献の3、5577頁、「松井候」の項。</ref>などがあった。
 
== 脚注 ==