「福岡の変」の版間の差分

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福岡藩士族の中にも、九州の他藩同様反政府の動きがあったが、[[1874年]]の[[佐賀の乱]]、[[1876年]]の[[神風連の乱]]、[[秋月の乱]]、[[萩の乱]]の何れにも同調せず、あくまでも[[西郷隆盛]]の決起を待ち続けた。そして、明治10年[[3月27日]]、西郷軍の[[熊本城]]包囲を知った元福岡藩士の[[武部小四郎]]、[[越智彦四郎]]、[[加藤堅武]]らは、慎重論を唱える[[山中立木]](後の[[福岡市]]初代市長)の説得を振り切り、200余名を持って決起した。[[福岡城]]におかれた[[鎮台]]兵を襲撃したが、敗退し大休山に退却した。敗残兵は西郷軍に一部が合流したが、大半の者が捕えられ、首謀者である越智、加藤らは5月2日、武部は5月4日に処刑された。そのほか、鹿児島城山で戦死した者や、萩の乱嫌疑で獄死した者を含め、102名が命を落としている。
 
なお、首謀者のうち武部小四郎は、福岡藩による勤皇派弾圧事件「[[乙丑の変]]」で[[切腹]]した建部武彦の遺児、加藤堅武もその時同じく切腹した元福岡藩[[家老]][[加藤司書]]の遺児であった。
 
== 著名な参戦者 ==