「SIAM SHADE」の版間の差分

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== 来歴 ==
* [[19911989年]][[3月]]、「女の子にもてたい」と思った栄喜が友人のNATINを誘ってSIAM SHADEの母体となるバンド「POWER」を結成。
* 同年、[[1991年YOKOHAMA HIGH SCHOOL HOT WAVE FESTIVAL]]、その後、"ホットウェーブ"のコンテスト参加出場してサマーグランプリ賞(優勝。ちなみに準優勝したのが)を受賞<ref>[http://www.pep-p.co.jp/hotwave/history.html FIFTY50YOKOHAMA HIGH SCHOOL HOT WAVE FESTIVAL・HISTORY」 voi.10参照]</FIFTY50」という当時KAZUMAがいたバンド(KAZUMAとはコンテストの直前に栄喜とNATINが運命的に会場近辺のパチンコ屋で出会う)ref>。POWERの他のメンバーがやめてしまったので突如脱退。昔から友達だったDAITAを誘ってみるが「音楽が合わない」とすぐに脱退その後、知り合った「あたる」と新バンド「ataru」を結成
* [[1992年]]、「FIFTY50/FIFTY50」が解散して「LOVE JETS」というバンドでボーカルをしていたKAZUMAを栄喜が「俺はもうすぐ辞めるから」と言ってメンバーに入れる勧誘。結局、栄喜は辞めなかったのでツインボーカルになる。その後DrにEIが加入する
* [[1993年]]、パチンコでもうけた100万円近くを使って4曲入りデモテープを制作し無料配布する。これと同時にバンド名を「SIAM SHADE」に改名する。7月、「やっぱりギターはDAITAしかいない」という話になり、行方のわからなかったDAITAを探し出してバンドに入ってもらう。当時はかなりの[[ビジュアル系]]だったのでDAITAは髪が伸びるまでカツラをかぶってライブに出ていた。
* [[1994年]] 5月に淳士加入。12月、1stアルバム『SIAM SHADE』が[[オリコンチャート|オリコン]][[インディーズ]]チャートで初登場2位を記録。
* [[1995年]]8月、[[渋谷公会堂]]のワンマンライブでの前半の[[コント]]内で[[高木ブー]]と共演。
* 1995年[[10月21日]]、「RAIN」でメジャーデビュー。
* [[1997年]]、6thシングルの「1/3の純情な感情」が『[[るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-]]』のエンディングテーマとなり大ブレイクを果たすに起用されスマッシュヒット
*2000年1月1日、[[横浜アリーナ]]において元旦ライブを
*[[2000年]][[8月29日]]、インディーズ時代からよく行っていた男子限定ライブ「'''男樹'''」を[[渋谷]]ON-AIR EAST(現在の[[Shibuya O-East]])にて行う。なお、前日にも[[大阪]]で同様のライブを行っている。
* [[2001年]][[12月28日]]、念願であった[[日本武道館]]で初ライブ。
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* [[2011年]][[4月29日]]、公式ホームページで復興支援ライブの開催を発表。
* [[2011年]][[7月17日]]、[[ZEPP SENDAI]]でチャリティーライブを開催。
* [[2011年]][[10月21日]]、メジャーデビューした日からちょうど16年目のこの日に[[さいたまスーパーアリーナ]]で震災復興支援のためのライブを行う。なおこの日のライブの模様は後日DVDで発売された。
* [[2012年]][[4月14日]]、現在、入手不可能となっている1stアルバム『SIAM SHADE』にインディーズ時代の3曲を加えたアルバム『SIAM SHADE SPIRITS 1993』をリリース。
 
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* 初期は「ロック界の[[ザ・ドリフターズ]]」を自称するほどコメディに走っており、ツアーごとにショートコントムービーを作っていた(ビデオ「SIAM SHADE」に、その一部が見られる)。また、エンドロール後に2ndシングル「TIME'S」のパロディ版が収録されている)なお、所属していた事務所[[アミューズ]]の俳優陣がゲスト出演しており、後にNATINと結婚する[[伊藤かずえ]]も出演している。
* メンバー全員が[[LUNA SEA]]を尊敬していたり、インディーズ時代に[[町田PLAY HOUSE]]を拠点としていたため、LUNA SEAの弟分バンドでもある。特に、栄喜はLUNA SEAのボーカル[[河村隆一]]を尊敬している。また、淳士はLUNA SEAのドラマー[[真矢 (ドラマー)|真矢]]に憧れてドラムを始め、一時期LUNA SEAの[[ローディー]]をしていたために、師弟関係でもある。[[LUNA SEA]]の2ndアルバム「[[IMAGE (LUNA SEAのアルバム)|IMAGE]]」のスタッフの中に、[[ローディー]]として、淳士の名前がある。ただし、スペルは"JYUNZI"と表記されている。LUNA SEAのインディーズ時代のライブビデオ「IMAGE OR REAL」に真矢のアップになると淳士の頭が映る。
* 1994年頃当時LUNA SEAのRYUICHI(現・河村隆一)がDJを務めていた『[[ミッドナイト・ロック・シティ]]』(※FM [[NACK5]]でオンエアされていたラジオ番組。月 - 金曜日25時 - 27時でLUNA SEAは木曜日担当。後SIAM SHADEも火曜日担当になるが、後述の栄喜脱退騒動もあって半年で降りている)の『インディーズ・ナイト』というコーナーに呼ばれ、デモテープの曲をかけてもらって以降、口コミで一気にライブでの動員数が増えた。
* メンバー全員が格闘技好き、さらには全員何らかのスポーツを好んでいたことからライブでのMCやライブのノリは[[スポコン]]調であった。
* 栄喜の先輩に[[吉田秀彦]]がおり、その縁もありバンドは何かと世話になっていた。殆どのアルバムの「special thanks」のところに彼の名前が載っている。ちなみに解散後、彼の紹介で[[ジェイロック|J-ROCK]]の社長を紹介してもらい[[ACID (バンド)|ACID]]やソロ活動をしている。
* [[広島県|広島]]の[[ライブハウス]]でライブをしたときに観客の重みで床が抜けたことがあり、後に弦楽隊3人が雑誌「[[バンドやろうぜ]]」で「バンドでのエピソードは?」と聞かれたときに3人そろってその事件を答えていた。結局そのときは棟梁が来るのを待ってライブを再開したようである。
*1997年4月、栄喜は一度脱退を宣言し、一時工事現場で働いていたことがある。そのときは、工事現場の同僚にSIAM SHADEのファンがいて、その人の説得によりすぐに復帰している。
* 後の[[韓流]]ブームよりずっと前の[[2000年]]に、当時日本人の大規模公演が解禁されたばかりの[[大韓民国|韓国]]で行われた[[釜山ロックフェスティバル]]に日本のロックバンドとして初めて参加するなど韓国のメディアからも注目を集めていた。
* ツインボーカルだが、あまり知られていない。本来、別のバンドに移籍するはずだった栄喜が、後釜としてKAZUMAを紹介したのだが、栄喜がそのまま居座ったため、この形になった(KAZUMAを引き込むために「自分は移籍するから後は頼む」と言っただけで、そもそも移籍する気はなかったともいう)。
* 栄喜は、1996年までは"CHACK"と名乗っていた。由来は、先輩から「好きなミュージシャンは誰だ?」と聞かれ、「[[セバスチャン・バック]](元[[スキッド・ロウ (バンド)|スキッド・ロウ]])です」と答えたら、「お前はこれからイマスチャン・チャックだ」と言われたことから来ている。
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* [[明石昌夫]]
* [[NMB48学園|NMB48学園〜教えて千鳥先生〜]]
 
== 注記 ==
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== 外部リンク ==