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Dignaaga (会話 | 投稿記録)
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'''信西'''(しんぜい、[[嘉承]]元年([[1106年]]) - [[平治]]元年[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]([[1160年]][[1月23日]]))は、[[平安時代]]末期の[[貴族]]、[[学者]]、[[僧侶]]。信西は[[出家]]後の[[戒名|法名]]、号は円空、[[俗名]]は'''藤原 通憲'''(ふじわら の みちのり)、または'''高階 通憲'''(たかしな-)。[[藤原南家]]貞嗣流、[[藤原実兼 (蔵人)|藤原実兼]]の子。[[正五位下]]、[[少納言]]。
 
 
== 経歴 ==
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通憲の願いは曽祖父・祖父の後を継いで[[大学寮]]の役職(大学頭・[[文章博士]]・[[式部省|式部大輔]])に就いて、学問の家系としての家名の再興にあった。ところが、[[世襲]]化が進んだ当時の公家社会の仕組みでは、高階氏の[[戸籍]]に入ってしまった通憲は、その時点で実範・季綱の後を継ぐ資格を剥奪されており、大学寮の官職には就けなくなってしまっていた。また、実務官僚としてその才智を生かそうにも、院の政務の補佐は[[勧修寺流]]藤原氏が独占していた。
 
=== 出家 ===
これに失望した通憲は、無力感から出家を考えるようになった。通憲の遁世の噂を耳にした[[藤原頼長]]は通憲に「その才を以って顕官に居らず、すでに以って遁世せんとす。才、世に余り、世、之を尊ばず。これ、天の我国を亡すなり」と書状を送った(『[[台記]]』康治2年[[8月5日 (旧暦)|8月5日]]([[1143年]][[9月15日]])条)。数日後、通憲と頼長は対面して世の不条理を嘆き、通憲は「臣、運の拙きを以って一職を帯せず、すでに以って遁世せんとす。人、定めておもへらく、才の高きを以って、天、之を亡す。いよいよ学を廃す。願わくば殿下、廃することなかれ」と告げ、頼長は「ただ敢えて命を忘れず」と涙を流した(『台記』康治2年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]](1143年[[9月21日]])条)。
 
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出家をしても信西は俗界から離れる気はなく、「ぬぎかふる 衣の色は 名のみして 心をそめぬ ことをしぞ思ふ(出家して墨染めの衣に着替えても、それは名ばかりのことで心まで染めるつもりはない)」(『月詣和歌集』)とその心境を歌に詠んでいる。鳥羽法皇の政治顧問だった[[藤原顕頼]]が[[久安]]4年([[1148年]])に死去すると、顕頼の子が若年だったことからその地位を奪取することに成功し、『[[本朝世紀]]』編纂の下命を受けるなど、その信任を確固なものとしていった。
 
=== 保元の乱 ===
そのような中で[[久寿]]2年([[1155年]])に[[近衛天皇]]が崩御し、後継天皇を決める王者議定が開かれる。候補としては[[重仁親王]]が最有力だったが、[[藤原得子|美福門院]]のもう一人の養子である守仁親王(後の[[二条天皇]])が即位するまでの中継ぎとして、その父の雅仁親王が立太子しないまま29歳で即位することになった(後白河天皇)。守仁親王はまだ年少であり、存命中である実父の雅仁親王を飛び越えての即位は如何なものかとの声が上がったためだった。
 
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この政策を行なう上で、信西は自分の息子たちを要職に就けた。そのことが旧来の院近臣や貴族の反感を買った。また、強引な政治の刷新は反発を招いた。一方、保元3年([[1158年]])8月には鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした[[二条天皇]]が即位する。この皇位継承は「仏と仏との評定」、すなわち美福門院と信西の協議で行われた。この二条天皇の即位に伴い、信西も天皇の側近に自分の子を送り込むが、今度はそのことが天皇側近の反感を招き、院近臣、天皇側近双方に「反信西」の動きが生じるようになった。
 
=== 平治の乱 ===
やがて院政派の[[藤原信頼]]、親政派の[[藤原経宗]]、[[藤原惟方]]らは政治路線の違いを抱えながらも、信西打倒に向けて動き出すことになる<ref>『平治物語』によると、後白河から信頼の大将就任を諮問された信西は先例を挙げて諫止するとともに、[[唐]]の[[玄宗 (唐)|玄宗]]皇帝と[[楊貴妃]]の悲劇を題材とした『[[長恨歌]]』の絵巻を作成し、信頼を寵臣でありながら[[安史の乱|反乱]]を起こした[[安禄山]]になぞらえて、その危険性を悟らせようとした。この絵巻は『[[玉葉]]』[[建久]]2年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1191年]][[11月23日]])条に記されており、実在が確認できる。絵巻を見た[[九条兼実]]は「この図、君の心を悟らせんがため、かねて信頼の乱を察して画き彰はす所なり。当時の規模、後代の美談なる者なり。末代の才子、誰か信西に比せんや。褒むべく、感ずべきのみ」と最大級の賛辞を呈している。</ref>。
信頼は[[源義朝]]を配下に治め、二条天皇に近い[[源光保]]も味方につけ、軍事的な力を有するようになっていく。その中にあって最大の軍事貴族[[平清盛]]は信西、信頼双方と婚姻関係を結んで中立的立場にあり、親政派、院政派とも距離を置いていた。平治元年([[1159年]])12月、清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃する([[平治の乱]])<ref>ただし、河内祥輔は信西襲撃の際、信西一族以外の院近臣のほとんどが信頼方についていることや信西一族への処分が信頼処刑後もすぐに解除されなかったことから、後白河上皇が「仏と仏との評定」に基づいて二条天皇親政への移行を進める信西を排除するために信頼らに信西を討たせたと解する(河内祥輔『保元の乱・平治の乱』(吉川弘文館、2002年)P110-136)。</ref>。
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『平治物語絵巻』の信西巻によると、彼の首は西の獄門の棟木にさらされたという。また、信西の息子たちも信頼の命令によって配流されることになった<ref>信西の息子達は流刑の宣告を受けた。流刑地への護送は、二条親政派と手を結んだ平清盛によって信頼ら後白河院政派が一掃された後に行われた。その後、二条親政派の経宗と惟方が失脚すると、帰京を許されている。</ref>。
 
学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られた。『[[今鏡]]』でもその才能を絶賛する一方で、[[陰陽道]]の家の出でもないのに[[天文学|天文]]に通じたがために災いを受けたのだと評されている。
 
== 系譜 ==
*父:[[藤原実兼 (蔵人)|藤原実兼]]