「日本のボクシング史」の版間の差分

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=== 黎明期 ===
[[1921年]](大正10年)1月、[[サンフランシスコ]]でプロボクサーとして活躍していた[[渡辺勇次郎]]が帰国し、同年12月25日に東京・[[目黒区]]に「日本拳闘倶楽部」(日倶)を開設。これが日本の本格的なボクシング競技の幕開けとされる。日倶は本格的[[ボクシングジム]]として多くのボクサーを育成。練習生の中から後の[[帝拳プロモーション|帝国拳闘会(帝拳)]]創設者・[[荻野貞行]]など日本ボクシング繁栄の礎となった人物や拳聖・[[ピストン堀口]]などのスター選手を輩出している。また、[[1922年]](大正11年)5月7日には[[靖国神社]]境内の相撲場にて「日米拳闘大試合」を主催。以後、翌年の[[関東大震災]]まで継続的に開催し、それまで見世物でしかなかったボクシング興行を本格的なスポーツとして定着させた。
 
[[1923年]](大正12年)2月23日、日倶の師範代であった[[臼田金太郎]]が、日倶後援のもと東京・上野の輪王寺の境内で学生拳闘試合を開催した。これが日本初のアマチュアボクシングの試合である。
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[[1927年]]6月5日、大日拳主催の「第一回日本選手権大会」が開催され、11月3日にはボクシング競技が第4回[[明治神宮大会]]に参加した。
 
1931年7月、拳闘ファンが急増した。スター選手の月収は1,000円以上(教員の初任給が15円、米10キロ1円20銭、ざるそば4銭)で、帝国・大日本・日本・東洋など拳闘クラブ(ボクシングジム)も10を超え、税務署が財源として目をつけるほどであった<ref>『昭和・平成 家庭史年表 1926〜2000 増補』 [[河出書房新社]] 1997年12月発行(2001年4月増補改訂 ISBN 4-309-22370-2) 下川耿史 家庭総合研究会 編</ref>。
 
== 脚注 ==