「昭和天皇」の版間の差分

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この時の発言について、[[戦争]]終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。この事件との影響は不明ながら、[[1944年]](昭和19年)に皇太子明仁親王が満10歳になり、皇族身位令の規定に基づき陸海軍少尉に任官することになった折には、任官を取りやめさせている。また、皇太子の教育係として陸軍の軍人をつけることを特に拒否している。
 
なお、[[1975年]](昭和50年)に[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス女王]]が来日した際、事件の影の首謀者と言われることもある[[真崎甚三郎]]の息子で外務省や宮内庁で勤務した真崎秀樹が昭和天皇の[[通訳]]をめた。
 
=== 太平洋戦争・大東亜戦争 ===
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{{Main|天覧相撲}}
 
[[Image:Michi-no-miya Hirohito 1913 Sumo.jpg|180px|thumb|1913年(大正2年)頃、育官と相撲に興じる裕仁親王(12歳)]]
皇太子時代から大変な[[好角家]]であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政賜杯を作らせている。即位に伴い、摂政賜杯は[[天皇賜杯]]と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も[[国技館]]に[[天覧相撲]]に赴いている。
 
特に戦後は[[1955年]](昭和30年)以降、病臥する[[1987年]](昭和62年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も[[蔵間竜也|蔵間]]、[[富士櫻栄守|富士桜]]、[[霧島一博|霧島]]など複数が伝わっている。特に富士桜の取には身を乗り出して観戦したと言われ、皇居でテレビ観戦する際にも大いに楽しんだという。上述の贔屓の力士と同タイプの力士であり毎回熱戦となる[[麒麟児和春|麒麟児]]との取は、しばしば天覧相撲の日に組まれた。天皇は後に、「少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白い」と語った<ref name="hosokawa">[[細川隆元]]『天皇陛下と語る』山手書房、 1982年</ref>。
 
観戦時には宮内庁の好角家とともに取の勝敗予想を競う「宮中場所」が営まれた{{要出典|date=2010年10月}}。優勝者には高さ50cmほどの「天皇賜杯」のミニチュアが天皇から授与され、次の場所には優勝者の名前を刻んだレプリカと交換された。主催者の天皇自身の勝敗予想は玄人好みのいわゆる「穴狙い」が多く、優勝したことはなかった。
 
==== 武道 ====
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[[1989年]](昭和64年)[[1月7日]]の危篤報道(午前6時35分発表)および崩御(午前7時55分発表)から翌1月8日終日までは、NHK([[NHK総合テレビジョン|総合]])および[[民間放送|民放]]各局が特別報道体制に入り、崩御報道を受けてのニュース、あらかじめ制作<!--「製作」ではない-->されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の業績を偲ぶ番組などが放送された。また、この2日間は[[コマーシャルメッセージ#CMが放送されなかった日|CMが放送されなかった]]。
 
7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、[[号外]]および[[夕刊]]には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。NHK教育テレビ以外すべてのテレビ局が特別報道を行ったため、多くの人々が[[レンタルビデオ]]店などに殺到する事態も生じた。特別番組では「'''激動の昭和'''」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真をる、[[二重橋]]などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。
 
1989年(昭和64年)1月7日のNHK朝の『ワイドニュース』(6時36分から3時間24分間)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日([[2月24日]])のNHK『ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日』(8時30分から4時間40分間)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率は[[ビデオリサーチ]]・[[関東地方|関東地区]]調べによる)。