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[[ファイル:Fridrihs Ketlers.jpg|thumb|クールラント公フリードリヒ]]
'''フリードリヒ・ケトラー'''(Friedrich('''Friedrich Kettler''', [[1569年]][[11月25日]] - [[1642年]][[8月17日]])は、[[クールラント・ゼムガレン公国|クールラント・ゼムガレン公]](在位1587年 - 1642年)。
 
クールラント公[[ゴットハルト・ケトラー]]とその妻アンナ・フォン・メクレンブルク=ギュストロウとあいだに長男として生まれ、ポンメルン=ヴォルガスト公[[ンスト・ルートヴィブレト7世 (メクレ公)|ンスブレヒ・ルートヴィヒ7世]]の娘エリーザベト・マグダレーであるアンを妻に迎えの間の長男として生まれた。父の死後、未成年の弟[[ヴィルヘルム・ケトラー|ヴィルヘルム]]が成人する1595年まで公国を単独で統治した。1595年、フリードリヒは弟に下級裁判権と宮廷の主人たる資格を与え、ヴィルヘルムを[[クルディーガ|ゴルディンゲン]]を居城とする公国の西半クールラント地域の公とし、自身は公国の東半ゼムガレン地域を統治する公となり、[[ミタウ]]を居城とした。
 
1615年、ヴィルヘルムが公爵兄弟と公国内の騎士身分との取次ぎ役を務めていたノルデという貴族を殺害すると、翌1616年に2人の公爵による封建領主体制は崩壊した。この事件に直接責任のないフリードリヒはゼムガレンの統治者の地位を保持し、1618年には弟ヴィルヘルムが公爵位を追われたクールラントの統治者をも兼ねることになった。フリードリヒはその死まで公爵としての影響力を保ち続け、自分の君主権を制限しようとする騎士身分による立憲政治導入の全ての試みを阻止した。フリ

1600年、ポンメルン=ヴォルガスト公[[エルンスト・ルドリトヴィ (ポンメルン公)|エルンスト・ルートヴィヒ]]の娘エリーザベト・マグダレーナを妻に迎えたが、間に子供無かった。後継者として廃位されていて指名できない弟ヴィルヘルムの代わりに、ヴィルヘルムの一人息子[[ヤーコプ・ケトラー|ヤーコプ]]を選んだ。フリードリヒの治世中、[[スウェーデン・ポーランド戦争]]が長期にわたって続くなかで、軍事的に弱小な公国は中立を保ち続けた。
 
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[[Category:ケトラー家|ふりとりひ]]
[[Category:クールラント公]]
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[[Category:1569年生]]
[[Category:1642年没]]
[[Category:イェルガヴァ出身の人物]]
 
[[de:Friedrich Kettler]]