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劉表の死後、曹操が荊州平定の軍を起こすと、荊州とその客将である[[劉備]]の軍事力を当てにして、降伏を渋る劉表の子の[[劉ソウ|劉琮]]を[[カイ越|蒯越]]や[[韓嵩]]達と共に説得にあたる。傅巽は劉備が曹操に対抗できないであろうことと、仮に劉備が曹操に対抗しえたとしても、今度は劉琮が劉備に対抗できず併呑されてしまうだろうと説き、曹操への降伏が滅亡を免れる道であるという旨の進言をした(劉表伝)。劉琮は曹操に降伏し、傅巽は荊州を降伏させた功績から[[関内侯]]に封じられた。
 
後漢から魏への[[禅譲]]の際は散騎常侍の地位にあったが、多くの群臣と共に[[曹丕]](文帝)に協力したという(文帝紀に引く『献帝伝』より)。曹丕が皇帝になると、[[黄初]]年間には[[侍中]](傅嘏伝では侍中尚書)に任じられる。同じ侍中の[[蘇則]]が文帝に責めかわているきは、真面目に反論誤解して弁明しようとする蘇則をした際は、こっそりいさめて止めさせている(蘇則伝)。
 
[[曹叡]](明帝)の時代である[[太和 (魏)|太和]]年間に死去した。