「ジャック・ペルチエ・デュ・マン」の版間の差分

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彼は1547年に[[ヘンリー8世_(イングランド王)|ヘンリー8世]]の弔辞を詠み、処女作『ジャック・ペルチエ・デュ・マンの詩篇集』を上梓した。この作品には、[[ホメロス]]の『[[オデュッセイア]]』の最初の2篇、[[ウェルギリウス]]の『ゲオルギカ』の第一の書、[[ペトラルカ]]の12篇の[[ソネット]]、ホラティウスの3篇の[[頌歌|オード]]、[[マルティアリス]]式の風刺詩を含んでいる。同時に[[ピエール・ド・ロンサール]]と[[ジョアシャン・デュ・ベレー]]の公刊されたものとしては最初期の詩篇をも含んでいる。彼は続いて[[テオドール・ド・ベーズ]]、[[ジャン・マルタン]]、[[ドニ・ソヴァージュ]]といった[[人文主義者]]のグループでの活動を開始した。
 
彼は『フランス語の[[正書法]]と発音の対話』(1550年)において、[[ルネサンス]]期のフランス語正書法の改革、および語源となる[[ラテン語]]に基づいてフランス語の語彙を正すことを試みた。彼はその中で、自身の公刊された著書の中では使い続けた、印刷記号を新たに用いた[[音声学]]的正書法を喧伝した(たとえば、無音のeに「ɇ」を、開音のeに「ȩ」の表記を考案。ただの「e」は閉音または中間母音のeを表す)。彼の姓が常に"Peletier"と"l"1文字で綴られるのはこのためである(現代フランス語では、"Peletier"は普通プルチエと発音する。ゆえに現代では"Pe'''ll'''etier"と綴り直されることもある)。[[ボルドー]]、[[ポワチエ]]などいくつかの地域を遍歴し、[[ピエモンテ]]ではブリサック元帥の息子の家庭教師を務めたと推測されている。その後[[リヨン]]では、[[モーリス・セーヴ]]、[[ルイーズ・ラベ]]、[[オリヴィエ・ド・マニ]]、[[ポンチュス・ド・チヤール]]といった詩人や人文主義者と親交を持った。そして、1555年には[[ジャン・ド・トゥルヌ]]を版元として、『フランス詩法』を出版した。なお、このトゥルヌの工房はラベの御用達であり、ペルチエはこの工房の幾ばくかの責任を負う立場にもあった。彼のその作詩教本では、詩が彼に真の「愉しみ」をもたらしてくれるものであること、そして詩は「非常に穏やかなる狂気の行使」だということを強調している。ザカリー・ゴダールへの献辞の中では、「愛は可能の対象 ''L’Amour est un sujet capable''. <!--すみません、何のことか分かりません。仏文学で定訳があるなら差し替えて下さい-->」とも述べている。彼はこの作品の中で、同時代の様々な詩のジャンルや詩人が持つべき態度を定義付けようとした。彼は特に[[宇宙誌]]や[[占星術]]、その他純粋かつ真剣な傾聴に値する事柄を含む[[自然科学]]の物事を詩に適用することが出来るという強い見通しを持っていた。
 
続いて、[[アンリ2世_(フランス王)|アンリ2世]]と[[カール5世_(神聖ローマ皇帝)|カール5世]]の和平を祈るラテン語の荘厳な論説や、新たな詩集を公刊した。その詩集は、一連のソネットのほか、[[流星]]・[[惑星]]や「愛の中の愛」と名付けられた天空を叙述した[[百科事典]]的な詩が収められていた。これは[[ギヨーム・ド・バルタス]]や[[ジャン=アントワーヌ・ド・バイフ]]らに影響を及ぼした可能性が高い。