「越後平氏」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Hansa (会話 | 投稿記録)
Hansa (会話 | 投稿記録)
10行目:
維茂の息子たちの代で越後平氏の基盤が築かれる。嫡男の[[平繁貞|繁貞]]は越後国内で勢力を拡大していったが、この一族は[[検非違使]]として専ら[[京都]]で活躍した。越後平氏の惣領となったのは三男の[[平繁茂|繁茂]](繁成/重衛)で[[秋田城介]]に任じられているが、この地位には既に兼忠が任じられていた。繁成は[[藤原登任]]と共に[[安倍頼良]]を攻撃して[[前九年の役]]を起こしている。繁成の息子である[[城貞茂|貞茂]](貞成)が[[城氏 (平氏)|城氏]]を称しているが、城の姓は明かに秋田城介に由来するものである。もっとも、城氏で秋田城介になった者はいないが。{{要出典範囲|date=2012年5月|貞茂の従兄弟である[[平繁家|繁家]]は[[奥山氏]]と称している。}}
 
越後平氏は嫡流の城氏を中心にして勢力を拡大する。貞茂の息子の[[城永基|永基]](長基)は「越後国住人」(後の[[国人]])と称され、その息子の[[城資国|資国]](助国)は[[出羽国|出羽]]の[[清原武衡]]の娘と結婚しているのである。一見、越後平氏は越後国全体を掌握したかのように見えるが、実態は[[阿賀野川]]流域と北部に限られていた。このことは越後平氏の一族の姓氏が阿賀北部の[[荘園]]に由来していることからも伺える。
 
=== 落日 ===