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== 概要 ==
[[博士]]の[[斎藤忠]]や[[太田亮]]が引用する『小右記』や『平安遺文』によると、もともとは[[中臣氏|中臣姓]]一族の[[伊勢国造]](伊勢直)が、伊勢国鈴鹿郡を拠点として、[[康和]]元年([[1099年]])[[10月 (旧暦)|10月]]に伊勢国の三重郡司として赴任した事項が見られる。

以降は[[伊勢平氏]]の[[平正度]]の子・[[平季衡]](下総守)の系統である[[鎌倉時代]]末期の当主、[[伊勢俊継|平俊継]]が[[伊勢国|伊勢]]守となって以降伊勢氏を称した<ref>[[竹内理三]]・[[高柳光壽]]偏『日本史辞典』第二版([[角川書店]])</ref>。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に俊継の孫[[伊勢貞継]]が政所執事となって以降、政所執事を世襲するようになった。[[伊勢貞親]]は8代将軍[[足利義政]]の教育係を務め、政治にも大きな影響力を持ち、[[応仁の乱]]前後の情勢に大きく関与した。貞親の子の[[伊勢貞宗]]、孫の[[伊勢貞陸]]は台頭する[[細川氏|細川京兆家]]の[[細川政元]]と協調し引き続き幕政に重きをなした。
 
貞陸の孫の[[伊勢貞孝]]とその子[[伊勢貞良]]は12代将軍[[足利義晴]]と13代将軍[[足利義輝]]に仕え、義輝の代に細川氏の没落後台頭した[[三好長慶]]と共に幕政を壟断したものの、長慶と対立し失脚したため勢力を弱めた。しかし[[足利義昭]]が[[織田信長]]とともに上洛してくると、貞良の子・貞為と貞興は幕府に仕える。貞為は病弱だったため家督を貞興に譲った。