「山形藩」の版間の差分

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57万石(出典不明の記述>慶應元年武鑑では二十八万八千二百石)おそらく、軍記の最上記、延享4年の最上義光分限帳が出所か?
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==藩史==
山形藩は、[[関ヶ原の戦い]]で東軍方に就いた[[最上義光]]が[[置賜郡]]を除く山形県全域と[[秋田県]]の一部、57万石(実高100出典不明の記述>慶應元年武鑑では二十八八千二百を超えるとまで云われた)を有して始まった。しかし[[元和 (日本)|元和]]8年([[1622年]])、3代藩主[[最上義俊]]の代に[[最上騒動]]と呼ばれる[[お家騒動]]から[[近江国]][[#大森藩|大森藩]]にわずか1万石をもって転封となる。
 
同年、[[鳥居忠政]]([[鳥居元忠]]の子)が22万石をもって新たな領主となった。2代[[鳥居忠恒|忠恒]]は[[寛永]]13年([[1636年]])に[[嗣子]]なく病没し、改易となった。のち、忠恒の異母弟[[鳥居忠春|忠春]]が[[信濃国]][[高遠藩]]に3万石で鳥居家を継ぎ立藩している。