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後に藩主・[[島津斉興]]に仕え、使番・[[町奉行]]などを歴任し、[[小林市|小林郷]][[地頭]]や[[鹿屋市|鹿屋郷]]地頭、[[南大隅町|佐多郷]]地頭を兼務する。藩が[[琉球王国|琉球]]や[[清]]と行っていた密貿易にも携わる。[[天保]]3年([[1832年]])には家老格に、天保9年([[1838年]])には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。[[弘化]]3年7月27日には[[志布志市|志布志郷]]地頭となり、死ぬまで兼職する。
 
当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は行政改革、農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払い(つまり[[2085年]]までに及ぶ分割払い。だが、実際には明治5年([[1872年]])の[[廃藩置県]]後に[[明治政府]]によって債務の無効が宣言されてしまった)にし、さらに[[琉球]]を通じて清と密貿易を行なった。一部商人資本に対しては交換条件としてこの密貿易品を優先的に扱わせ、踏み倒すどころかむしろ利益を上げさせている。そして[[奄美大島|大島]]・[[徳之島]]などから取れる[[砂糖]][[専売制]]を行って大坂の[[砂糖問屋]]の関与の排除を行ったり、[[商品作物]]の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年([[1840年]])には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。
 
やがて藩主斉興の後継者を巡る長男[[島津斉彬]]とその異母弟[[島津久光]]による争いが[[お家騒動]](後の[[お由羅騒動]])に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似て[[西洋かぶれ]]である斉彬が藩主になる事で再び財政が悪化する事を懸念しての事であると言われている。