「深溝松平家」の版間の差分

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== 概要 ==
 
代々深溝城主であったが、[[天正]]8年([[1590年]])の[[徳川家康]]の関東移封と同時に[[松平家忠]]が一万石として[[忍藩]]に入っている。子の[[松平忠利]]は、[[慶長]]6年([[1601年]])[[関ヶ原の戦い|関ヶ原]]の功に対して父祖の旧領復帰を要望し[[深溝藩]]1万石となったが、[[慶長]]17年([[1612年]])3万石に加増され[[三河吉田藩]]へ移った。<br>[[松平忠房]]の代に[[刈谷藩]]、[[福知山藩]]と転封を続け[[寛文]]8年([[1668年]])6万5000石で[[島原藩]]に入った。[[寛延]]2年([[1747年]])[[宇都宮藩]][[戸田忠盈]]と入れ替わりで移封。[[安永]]3年([[1774年]])再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入り、以後8代にわたって支配し[[明治維新]]を迎える。維新後、[[子爵]]。
[[慶長]]19年([[1614年]])[[松平忠房]]が3万石に加増され[[三河吉田藩]]へ移ったが、[[刈谷藩]]、[[福知山藩]]と転封を続け[[寛文]]8年([[1668年]])6万5000石で[[島原藩]]に入った。[[寛延]]2年([[1747年]])[[宇都宮藩]][[戸田忠盈]]と入れ替わりで移封。[[安永]]3年([[1774年]])再び宇都宮藩と入れ替わりで島原藩に入り、以後8代にわたって支配し[[明治維新]]を迎える。維新後、[[子爵]]。
 
== 系譜 ==