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[[1873年]]([[明治]]6年)、2代目斎藤弥九郎主催の[[浅草]][[撃剣興行]]に参加。[[1883年]](明治16年)、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]][[軍曹]]として[[警視庁 (内務省)|警視庁]]主催の[[弥生慰霊堂|向ヶ岡弥生社]]撃剣大会に出場し、[[直心影流剣術|直心影流]]江原則明に勝つ。[[1884年]](明治17年)、同大会で[[三橋鑑一郎]]に敗れる。[[1885年]](明治18年)、[[高輪]]の[[伊藤博文]]邸で開催された[[天覧試合]]に出場し、[[坂部大作]]と引き分ける。同年、[[宮内省]][[済寧館]]天覧試合にも出場し、渡辺楽之助に敗れる。
 
[[1885年]](明治18年)、[[神田区]]西小川町に「[[有信館]]」道場を設立。剣道界に大きな勢力を持つ道場となる。[[1888年]](明治21年)、[[憲兵 (日本軍)|憲兵]]から[[日本の警察|警察]]に転じ、[[警視庁 (内務省)|警視庁]][[警視流|撃剣世話掛]]、[[皇宮警察 (宮内省)|皇宮警察]]撃剣世話掛、宮内省済寧館[[御用掛]]を歴任。
 
[[1894年]](明治27年)、[[学校法人慶應義塾|慶應義塾]]剣術部の師範となる(同部は隆盛を極め、慶應義塾は[[1918年]](大正7年)、普通部3年生以上に正課として剣道を課し、また幼稚舎6年生にも剣道の指導を行うことを決定することとなる)。
 
[[1895年]](明治28年)、[[大日本武徳会]]第1回[[全日本剣道演武大会|武徳祭大演武会]]に出場し、特に優秀と認められ[[精錬証]]を授与される。[[1906年]](明治39年)、[[範士]]号を授与される。[[真貝忠篤]]、[[得能関四郎]]と共に「東都剣道界の三[[元老]]」と称され、明治剣道界の[[大御所]]的存在であった。[[1911年]](明治44年)、剣道形調査委員(全国から25名選出)の主査に選ばれ、[[日本剣道形#大日本帝国剣道形|大日本帝国剣道形]]制定に尽力した。
 
信五郎には妻(名は玉子)がいたが、実子が無かったため、高弟の[[中山博道]]を養子にして、神道無念流有信館を継がせた。中山は[[昭和]]初期の剣道界において「[[昭和の剣聖|剣聖]]」と称された。