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'''高柳 重信'''('''たかやなぎ じゅうしん'''、[[1923年]][[1月9日]] - [[1983年]][[7月8日]])は[[俳人]]。本名は高柳重信(しげのぶ)、俳人としては「じゅうしん」を自称した。3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱、実践し、[[金子兜太]]とともに「前衛俳句」の旗手となった。
 
[[東京市]]小石川区(現[[文京区]])生れ。父の市良は[[群馬県]][[佐波郡]]出身で、[[大蔵省]]技手、建築請負業を経て戦後は印刷業に従事。黄卯木の俳号を持つ俳人であった。妹の美知子は[[性教育]]の研究者で、[["人間と性"教育研究協議会]]の創設メンバー。[[東京都立北園高等学校|東京府立第九中学校]]、[[早稲田大学]]専門部法科卒業。
 
==来歴==
[[1936年]]、父の所属する俳誌「春蘭」に初めて投句。大学に入学した[[1940年]]に「早大俳句研究会」に参加、[[富沢赤黄男]](かきお)に師事した。戦後は前橋市の理研重工業に勤務。[[1958年]]に赤黄男、[[三橋鷹女]]、[[高屋窓秋]]、[[永田耕衣]]を擁して「俳句評論」を創刊した。
 
[[東京市]]小石川区(現[[文京区]])生れ。父の市良は[[群馬県]][[佐波郡]]出身で、[[大蔵省]]技手、建築請負業を経て戦後は印刷業に従事した。黄卯木の俳号を持つ俳人であった。妹の美知子は[[性教育]]の研究者で、[["人間と性"教育研究協議会]]の創設メンバー。[[東京都立北園高等学校|東京府立第九中学校]]、[[早稲田大学]]専門部法科卒業を務めた
3行ないし4行書きの多行書きの俳句を提唱、実践し[[金子兜太]]とともに「前衛俳句」の旗手となった。
 
1931年、重信は小学校の国語の時間に俳句を作らされた。年譜などではこれが最初の句作のエピソードとして記されている。
後年、[[山川蝉夫]]という別人格を登場させ発想と同時に書ききるという、一行の俳句形式も行った。
 
1935年、[[東京都立北園高等学校|東京府立第九中学校]]に入学。1936年、父の所属誌『春蘭』に十句を投稿し、そのうちの二句が選出される(俳号は翠峰)。
 
1940年、[[早稲田大学]]専門部法科に入学。「早大俳句研究会」に所属し、俳誌『睦月』に入会。また友人らとは同人誌『群』を創刊。号を翠子とあらためる。1941年、「愛国俳句欄」を設けた『睦月』の主旨に反対し、脱会。新たに友人らと「早大俳句会」の創立を計画したが、折からの大戦の勃発によって中断される。
 
1942年、私誌『抵抗線』を謄写版刷で作成。『早大俳句』を創刊。大学は9月に繰り上げ卒業するが、同時に肺結核に罹患した。1945年、群馬県に疎開し、前橋の理研重工業に勤務。同地で終戦を迎える。
 
1946年、埼玉県戸田市に移転。『群』『薔薇』を発行。谷川洵の筆名で詩・短歌・散文を執筆。1947年、吉祥寺の[[富沢赤黄男]](かきお)邸を初めて訪問し、『太陽系』(のち『火山系』)に参加。恵幻子の筆名で評論を発表。1948年、友人らと同人誌『弔旗』を創刊。1949年、『火山系』の廃刊をうけ、新たに『黒彌撒』創刊。塚本邦雄との交遊が始まる。
 
1950年、第一句集『蕗子』を上梓。1951年、友人らと『七面鳥』を創刊。黒彌撒同人句集『傾斜都市』を刊行。
 
1951年、第二句集『伯爵領』を上梓。富沢赤黄男らを擁して『薔薇』を創刊。同誌は赤黄男が作品欄の選をする会員作品140名ほどの集団となる。
 
1954年、初期作品を整理して第三句集『前略十年』を刊行。1956年、第四句集『黒彌撒』を上梓。
 
1958年、『薔薇』を解消。三月に同志を募って総合同人誌『俳句評論』を創刊。創刊世話人は富沢赤黄男、[[三橋鷹女]]、[[高屋窓秋]]、[[永田耕衣]]、[[三谷昭]]、[[湊楊一郎]]、[[折笠美秋]]ほか六名。中村苑子を『春燈』より招請し、同氏宅を発行所とする。
 
1962年、同人合同作品集『現代俳句選集』刊行。富澤赤黄男死去。1965年、喀血し入院。退院後、『定本・富沢赤黄男句集』を刊行。
 
1967年、サンケイ銀座俳句教室の講師に就任。1968年、総合誌『俳句研究』(俳句研究新社)の編集長に就任。その後、同誌を通じて[[夏石番矢]]、[[摂津幸彦]]らを見出す。
 
1970年、海程戦後俳句の会から『高柳重信句集』を刊行。1972年、第五句集『高柳重信全句集』刊行。1973年、新人発掘の強化を図るべく、五十句競作を企画し、みずから募集作品の選考にあたる。1974年、第一評論集『バベルの塔』を刊行。
 
1976年、第七句集『山海集』刊。『三橋鷹女全句集』『富澤赤黄男全句集』『高屋窓秋全句集』の編集に没頭。1977年、『俳句評論』創刊二十周年記念『昭和俳句選集』を編集し発行。立風書房『現代俳句全集』『鑑賞・現代俳句全集』の編集委員を担当。1978年、第二評論集『現代俳句の軌跡』刊。
 
1980年、[[山川蝉夫]]という別人格による作品『山川蝉夫句集』登場させ発表。発想と同時に書ききるという一行の俳句形式った
 
 
俳誌「俳句評論」代表。総合誌「[[俳句研究]]」(俳句研究新社)編集長を歴任した。同誌では[[夏石番矢]]、[[摂津幸彦]]らを見出した。妻、高柳篤子(後に渡米し、[[広岡マリ]]の名で画家として活動)と離婚後、俳人[[中村苑子]]と生涯をともにしたが、結婚はしなかった。歌人の[[高柳蕗子]]は篤子との実子。一時は篤子に引き取られたが、後に重信のもとに戻って育つ。
 
 
==著書==
 
===句集===
*『蕗子』 1950年
*『伯爵領』 1952年
*『前略十年』 1954年
*『黒彌撒』 1956年
*『高柳重信全句集』 1972年
*『青彌撒』 1974年
*『山海集』 1976年
*『日本海軍』 1979年
*『山川蝉夫句集』 1980年
*『高柳重信全集』(全三巻) 立風書房、1985年
 
===評論集===
*『バベルの塔』 1974年
*『現代俳句の軌跡』 1978年
 
俳誌「俳句評論」代表。総合誌「[[俳句研究]]」(俳句研究新社)編集長を歴任した。同誌では[[夏石番矢]]、[[摂津幸彦]]らを見出した。妻、高柳篤子(後に渡米し、[[広岡マリ]]の名で画家として活動)と離婚後、俳人[[中村苑子]]と生涯をともにしたが、結婚はしなかった。歌人の[[高柳蕗子]]は篤子との実子。一時は篤子に引き取られたが、後に重信のもとに戻って育つ。
 
句集に「蕗子」「伯爵領」他。「高柳重信全集」(全三巻)などがある。
 
==外部リンク==