「喜連川騒動」の版間の差分
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喜連川から帰った幕府御上使の報告に基づき、即刻評定が下され、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の3名が[[伊豆大島]]へ[[流罪]]、一色左京(一色刑部の長男)・石塔八郎・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の5名は大名旗本預かりとなったとされる。また、この事件当時、尊信派の次席家老の二階堂又市(15歳)は、役責不行き届きの罪により白河城主本多能登守<ref>『喜連川町誌』による。『[[寛政重修諸家譜]]』によれば、本多能登守([[本多忠義]])が[[白河藩]]主であったのは、喜連川騒動事件解決の翌年1649年6月からであり、それまでの白河藩主は榊原忠政の嫡子[[榊原忠次]](大須賀忠次、松平忠次とも)であった。</ref>に預けられたとされる。
高野修理等の働きにより3代喜連川尊信は開放され藩政を取り戻し、その約5年後の[[承応]]2年([[1652年]])、尊信の死去により4代[[喜連川昭氏]](7歳)が大叔父である[[榊原忠
この喜連川騒動では、誰一人として死罪となった者はいなかったが、喜連川藩の一色派の家は断絶となったとされる。
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