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{{基礎情報 公家
'''藤原 実頼'''(ふじわら の さねより、[[昌泰]]3年([[900年]]) - [[天禄]]元年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]([[970年]][[6月24日]]))は、[[平安時代]]中期の[[公卿]]。[[藤原北家]]、[[摂政]][[関白]][[太政大臣]]・[[藤原忠平]]の長男。母は[[宇多天皇]]の皇女[[源順子]]。幼名は牛養(うしかい)。'''小野宮殿'''と称す。[[諡|漢風諡号]]は'''清慎公'''、国公は'''尾張公'''。
|氏名=藤原実頼
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|画像説明=
|時代=[[平安時代]]中期
|生誕=[[昌泰]]3年([[900年]])
|死没=[[天禄]]元年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]([[970年]][[6月24日]])
|改名=牛養(幼名)→実頼
|別名=小野宮殿
|諡号=清慎公(漢風諡号)、尾張公(国公)
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|官位=[[従一位]]、[[摂政]]、[[関白]]、[[太政大臣]]<br>贈[[正一位]]
|主君=
|氏族=[[藤原北家]][[小野宮流]]
|父母=父:[[藤原忠平]]、母:[[源順子]]([[宇多天皇]]の皇女)
|兄弟='''実頼'''、[[藤原師輔|師輔]]、[[藤原師保|師保]]、[[藤原師氏|師氏]]、[[藤原師尹|師尹]]
|妻=[[藤原時平]]の娘<br>'''[[藤原能子]]'''([[藤原定方]]の娘)
|子='''[[藤原敦敏|敦敏]]'''、[[藤原頼忠|頼忠]]、[[藤原斉敏|斉敏]]、[[藤原慶子|慶子]]([[朱雀天皇]]女御)、娘([[源高明]]室)、[[藤原述子|述子]]([[村上天皇]]女御)<br>養子:''[[藤原佐理|佐理]]''、''[[藤原実資|実資]]''
|特記事項=
}}
'''藤原 実頼'''(ふじわら の さねより)は、[[平安時代]]中期の[[公卿]]。
 
[[摂政]][[関白]][[太政大臣]]を歴任した[[藤原忠平]]の長男として順調に栄達し、[[村上天皇]]のときに[[左大臣]]として[[右大臣]]の弟・[[藤原師輔|師輔]]とともに朝政を指導して[[天暦の治]]を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たることができなかった。[[冷泉天皇]]が即位すると、天皇の狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで[[円融天皇]]が即位すると摂政に任じられている。また、[[有職故実]]に通じ、[[小野宮流]]を創始した。
 
== 生涯 ==
[[関白]]忠平の長男として生まれる。[[延喜]]15年([[915年]])正月20日、16歳のときに[[元服]]し、翌21日に叙爵([[従五位]])。この叙位は、宇多法皇の口添えによって実行されたと『[[醍醐天皇御記]]』にある。その後、数か国の国司や武官を経て、[[延長 (元号)|延長]]8年([[930年]])に[[蔵人頭]]となる。[[朱雀天皇]]の延長9年([[931年]])に[[参議]]に任じた。[[天慶]]2年([[939年]])に[[大納言]]に任じられ、天慶7年([[944年]])に[[右大臣]]を拝する。実頼が大納言であった天慶年間に[[一上]]の宣旨を蒙っていることが、『[[台記]]』や柳原家記録中の『砂巌』などによって分かる。
 
[[村上天皇]]が即位した[[天暦]]元年([[947年]])に[[左大臣]]を拝し、同時に弟の師輔は右大臣に任ぜられた。天暦3年([[949年]])忠平薨去のあとをうけて[[藤氏長者]]となる。実頼と師輔は左右大臣としてともに村上天皇を輔佐し、[[天暦の治]]と評された。実頼は[[藤原述子|述子]]を、師輔は[[藤原安子|安子]]を村上天皇の[[女御]]として入内させ寵を競ったが、述子は皇子を生むことなく死去し、一方、安子は[[東宮]][[冷泉天皇|憲平親王]]をはじめ、[[為平親王]]、[[円融天皇|守平親王]]を生んでおり、後にこれが双方の家の栄達に決定的な差を生じさせる。天暦4年([[950年]])には憲平親王が立太子が決定されたが、『[[九暦]]』逸文によれば、これは村上天皇・藤原穏子・朱雀法皇・藤原師輔の密談によって決定され、逆に言えば実頼の知らないうちに決定されていたのである。
 
[[康保]]4年([[967年]])村上天皇が崩御して憲平親王が即位した(冷泉天皇)。冷泉天皇には狂気の病があり、天皇を輔弼する者が必要で、村上天皇時代には長く置かれなかった関白が復活し、藤原氏嫡流で長老の実頼が任じられ、同時に[[太政大臣]]に補任された。同じ年に天皇の病気を理由として実頼を[[准摂政]]としたが、その宣旨が当時既に死去していた師輔の子である権中納言[[藤原伊尹|伊尹]]・蔵人頭[[藤原兼家|兼家]]によって準備され、公式に宣旨を発給する任にある実頼の子である[[左大弁]]頼忠にすら知らされていなかった。冷泉天皇は師輔の長女[[中宮]]安子が生んだ皇子だが、師輔も安子も既に亡くなっており、師輔の子の[[藤原伊尹|伊尹]]・[[藤原兼通|兼通]]・[[藤原兼家|兼家]]たちは未だ若年だった。よって実頼が関白太政大臣、[[源高明]]が左大臣、[[藤原師尹]]が右大臣となり、冷泉天皇のもとの台閣が組織されたが、実頼は関白ながら外戚ではなく、自らの日記で何かと軽んじられ、外戚伯父にあたる師輔の子たちが跳梁していることを嘆き「揚名関白(名ばかりの関白)」と称している。
 
天皇の即位礼は通常[[大極殿]]で百官を集めて行うべきだが、天皇の病気が案じられ、実頼は異常事に備えるべく[[内裏]]内の[[紫宸殿]]で挙行させた。これは実頼の功績であると称賛され、以、即位礼は[[紫宸殿]]で行われるのが通例となった。
 
冷泉天皇に狂気の病がある以上は長い在位は望めず、弟皇子から早急に東宮を定めることになった。同母弟で年長の為平親王が有力だったが、東宮には守平親王と決した。これは為平親王の妃が左大臣源高明の娘であり、実頼と師尹が源氏の高明が将来外戚となることを恐れたためであった。[[安和]]2年([[969年]])失意の高明に突如謀反の嫌疑がかけられ失脚し、[[大宰府]]へ流される事件が起きた([[安和の変]])。実頼はこの陰謀の首謀者とされているが、弟の師尹または師輔の子の伊尹、兼家を擬定する説もある。
 
同年、冷泉天皇は譲位し、守平親王が即位した(円融天皇)。新帝が未だ幼年であったため実頼は摂政に任じられ。だが、翌天禄元年(970年)に病に倒れ<ref>「あやしう風起りがちにて」(『栄花物語』巻第一,月の宴)</ref>、5月薨去。享年71。[[正一位]]が追贈され、[[尾張国]]に封じ、清慎公と諡号された。
 
実頼は摂関を歴任したものの天皇との外戚関係を結ぶことができず、自らを[[揚名官]](名前だけの名誉職)の関白という意味で「揚名関白」と称している。また、『[[栄花物語]]』が、[[藤原師輔|師輔]]を、「一(実頼)苦しき二の人(師輔)」と実頼とを比較して評していることから、実頼の政治的実権が乏しく、[[村上天皇]]朝においては師輔、[[冷泉天皇|冷泉]][[円融天皇]]朝においては両天皇と外戚関係にあった師輔の子[[藤原伊尹]][[藤原兼家]]等が実権を掌握したと捉えられている。しかし、[[村上天皇]]朝においては、[[太政官符]]・[[宣旨]]発給の責任者である[[上卿]]の回数が師輔と較べて多いことや、[[冷泉天皇]]即位式の際、通常[[大極殿]]で行うべきところを、天皇御悩のために[[紫宸殿]]挙行に変更させたことなどを考慮すると、実頼の政治的実権は乏しかったとするのは穏当ではなく、更に議論が必要であろう。
 
== 人物 ==
[[有職故実]]に詳しく、父忠平の教命を受け(忠平の教命は、実頼が『小野宮故実旧例』として纏めた)、朝廷儀礼のひとつである小野宮流を形成した。なお、実頼の流派が小野宮流と呼ばれる所以は彼の邸宅名による。
 
また、日記『清慎公記』(『水心記』ともいう)を著していたことが『[[小右記]]』等の逸文によって知られる。なお、[[藤原公任]]が『清慎公記』の部類記を作成する際に書写せず原本を直接切り貼りしたため、部類記収録以外のものは反故になってしまい、元来の所持者であったと考えられる公任の従兄弟の[[藤原実資]](公任・実資ともに実頼の孫)の憤激を買っている<ref>『小右記』寛仁4年8月18日条</ref>。その部類記も[[長和]]4年([[1015年]])の[[藤原教通]]邸焼亡の折に焼失したため現存していない。また、同じく公任の『[[北山抄]]』に度々引用されている「私記」も『清慎公記』のことと考えられている。なお、実頼は父・忠平の『[[貞信公記]]』に注釈を加えた際に自己の記述も「私記」と記しているが、『北山抄』引用の「私記」には忠平が第三者として登場することから、実頼自身は『清慎公記』の事も「私記」と称していたと考えられている。
 
[[和歌]]に秀で、歌集『清慎公集』があるほか、『[[後撰和歌集]]』(9首)以下の[[勅撰和歌集]]に34首が採録されている<ref>『勅撰作者部類』</ref>。ほかに[[笙]]・[[箏]]の名手として知られ、特に箏は[[醍醐天皇]]より学んでいる。
 
実頼は多才で趣味も豊富である上に、きちんとした性格で人の模範として引かれるほどであった<ref>『大鏡』太政大臣実頼 清慎公</ref>。一方で、心の奥底が深く気難しい性格であったという評価もある<ref>『[[栄花物語]]』巻第一,月の宴</ref>。
 
== 逸話 ==
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|康保4年([[967年]])
|6月22日、関白。8月19日、内覧(冷泉天皇御悩の間)<ref>『[[類聚符宣抄]]</ref><ref name="d" />。12月13日、太政大臣。
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|[[安和]]2年([[969年]])
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{{藤原氏長者|949 - 970}}
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{{歴代関白}}
{{歴代太政大臣}}
 
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[[Category:藤原北家小野宮流|さねより]]
[[Category:摂関]]
[[Category:平安時代の公家]]
[[Category:平安時代の歌人]]
[[Category:900年生]]
[[Category:970年没]]