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'''傅 嘏'''(ふ か、[[209年]] - [[255年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。字は蘭石。北地泥陽県の人。[[魏 (三国)|魏]]に仕えた。祖父は[[後漢]]の[[代郡]][[太守]]の傅睿。伯父は魏の[[侍中]][[尚書]]の[[傅巽]]。父は黄門侍郎の傅充。子に傅祗。孫に傅宣傅暢。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏志に伝がある。
 
20歳頃から名が知られるようになり、[[司空]]の[[陳羣]]に取り立てられその属官となった。当時、散騎常侍の[[劉劭 (曹魏)|劉劭]]達の間で官吏選抜制度の議論が活発であったが、傅嘏もまた自分の意見を述べた。また、[[何晏]]・鄧颺・[[夏侯玄]]といった人物が一世を風靡していたが、傅嘏は彼らの人物を嫌って親しくしようとはせず、荀粲のような正直な人物と付き合った。同じ州の出身である[[李豊]]とは、名声を等しくしていたが不仲であり、李豊は高官に昇ってもいずれ破滅するだろうと予想していた。
 
[[正始]]年間に[[尚書]]郎に任命され、黄門侍郎にもなった。当時政治の実権を握っていた[[曹爽]]は、何晏を吏部尚書とし人事を任せていた。傅嘏は曹爽の弟[[曹羲]]に何晏を重用しないよう勧めたが、これが何晏の耳に入ったため、後に些細なことを理由に傅嘏を免職とされた。後に滎陽太守県令に任命されたが、出仕しなかった。後に[[太傅]]となった[[司馬懿]]の招聘を受けて従事中郎将となり、曹爽一派が失脚すると河南尹に任命されて、尚書に昇進した。河南尹の政治は前任者の[[李勝]]の統治が放漫であったため乱れていたが、傅嘏は先任者である[[司馬芝]]や劉静らの政治手法から学び、統治を引き締めた。しかし、その功績が表に出ないように努めたため、人々に評されることはあまりなかったという。
 
前線の将軍達の間で[[呉 (三国)|呉]]征伐の機運が持ち上がると、傅嘏は意見を求められたが、呉征伐に消極的な意見を述べた。果たして、[[胡遵]][[諸葛誕]]が東興で呉の[[諸葛恪]]に敗れ、遠征は失敗に終わった(東関の役)。この勝利に奢り、今度は諸葛恪が北伐の軍を起こし、[[青州]]・[[徐州]]に攻め寄せる気配を見せたとき、傅嘏はその動きは陽動であり、結局、諸葛恪は[[合肥]]に攻め寄せるであろうと予想し、的中させている。
 
[[嘉平]]年間に[[関内侯]]の爵位を得た。[[曹髦|高貴郷公]]が即位すると、武郷亭侯に爵位を進めた。[[255年]]、[[カン丘倹|毌丘倹]][[文欽]]が[[揚州]]で反乱を起こしたときは、[[司馬師]]が自ら討伐に出向くことを[[王粛]]と共に主張した。傅嘏は尚書僕射として司馬師の遠征に同行、反乱の鎮圧には傅嘏の策謀によるところが大きかった。司馬師が逝去すると、高貴郷公は傅嘏のみに軍を率いさせて、[[司馬昭]]の権力を削ごうとしたが、傅嘏は直ちに司馬昭を伴い[[洛陽]]に帰還した。陽郷侯に封じられ、600戸の加増を受け、1200戸を領した。その年の内に46歳で亡くなった。[[太常]]を追贈され、元侯と諡された。子の傅祗が爵位を継いだ。
 
[[鍾会]]と親しく付き合ったが、鍾会の野心の高さを見抜き、行く末を心配していたという。