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{{基礎情報 公家
'''藤原 資平'''(ふじわら の すけひら、[[寛和]]2年([[986年]]) - [[治暦]]3年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[1068年]][[1月13日]]))は、[[平安時代]]中期の[[公卿]]。養父は[[右大臣]][[藤原実資]]。極官は[[大納言]]。
|氏名=藤原資平
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|時代=[[平安時代]]中期
|生誕=[[寛和]]2年([[986年]])
|死没=[[治暦]]3年[[12月5日 (旧暦)|12月5日]]([[1068年]][[1月13日]])
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|官位=[[従二位]]、[[大納言]]
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|氏族=[[藤原北家]][[小野宮流]]
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|兄弟=[[藤原経通|経通]]、'''資平'''、[[藤原経任|経任]]、[[藤原資頼|資頼]]、[[藤原資高|資高]]
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|子='''[[藤原資房|資房]]'''、[[藤原資仲|資仲]]<br>養子:''[[藤原義綱|義綱]]''
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'''藤原 資平'''(ふじわら の すけひら)は、[[平安時代]]中期の[[公卿]]。[[藤原懐平]]の次男。
 
==生涯==
[[藤原懐平]]の二男として生まれるが、時期は不明ながら、懐平の弟でその祖の[[右大臣]][[藤原実|実]]の養子となっていた、実資の養子となる。実資は実頼の家系([[小野宮流]]の嫡流となってを継いでため、資平は三歳上の実兄[[藤原経通|経通]]と並んで官途を昇ることとなった。
 
[[長徳]]3年([[997年]])に、12歳で従五位下の叙位を受け、翌年には[[侍従]]に任官し、その後も養父の引き上げもあり、順調に官位を昇進し、[[長和]]4年([[1015年]])には公卿に次ぐ[[蔵人頭]]に任官する。当時の[[三条天皇]]は、廟堂の首班である[[藤原道長]]とは疎遠であり、そのった関係から天皇は実資を相談相手とすることが多く、資平の蔵人頭も道長との押し問答のようなやり取りの挙句に、天皇が強行したものであった。
 
この時期三条天皇の眼病が進行し、その退位が予想されていた時期でもあったため、天皇に近侍する蔵人頭の職であった資平も、重大な場面に立ち会うこともあった。実資の日記「小右記」によると、[[長和]]4年([[1015(1015]])[[4月29日 (旧暦)|4月29日]]には、資平の見たこととして、道長が三条天皇に退位を要求したが天皇は断ったことをうかがわせる一文が記されている。
 
三条天皇の退位で[[後一条天皇]]が即位すると、長和6年([[1017年]])には、[[参議]]に任官し公卿となった。しかし、三条天皇との関係からくる活動はその後もあったようで、その[[中宮]][[藤原妍子|妍子]]が[[皇太后]]となると、皇太后宮権大夫となって近侍している。
 
その後は[[長元]]2年(1029年)に権[[中納言]]となって以降は、[[康平]]4年(1061年)に権大納言となるまで、30年以上廟堂内での官職は変わらず、その間[[寛徳]]3年([[1046年]])には、右大臣となっていた養父実資が死去し、ついで経通も[[永承]]6年([[1051年]])に死去するなどし、小野宮流の嫡流としての重責は資平が担うこととなっていった。長男資房は[[長久]]3年([[1042年]])には参議となり、またその後も兄の子である経季や顕家らが参議となったが、資房には[[天喜]]5年([[1057年]])に先立たれるという悲劇もあった。
 
しかし、資平自身は長寿で、[[藤原頼通]]が子の[[藤原師実|師実]]を[[内大臣]]に引き上げるため、[[太政大臣]]に移った際の異動で、76歳にして[[大納言]]となり、さらに4年後の康平8年([[1065年]])には大納言に昇った。それから2年後に、在任のまま死亡している。祖父[[藤原斉敏|斉敏]]は46歳と短命であり、実父懐平や兄の経通も長寿ではなかったが、養父実資と同様に長寿であったのは、実資が小右記で記しているように健康に関心があり、子の資平にもそれを守らせていたためと思われる。
 
また、衰えたとはいえ、資平の頃までは小野宮流は上流貴族の一端を占める権勢家として認識されていたらしく、天喜元年([[1053年]])の伊賀国で[[本家]]の威光を背景に、税を納めない[[荘園]]の立券を停止することを命じている[[官宣旨]]では、[[藤原教通]]、[[藤原能信|能信]]、[[藤原信長|信長]]らの道長の子孫([[御堂流]])と並んで、資平の荘園も挙げられており、寄進によって税を逃れることができる家格を持っていたことが伺える。
 
== 官位 ==
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*長和6年(1017年)参議
*寛仁3年(1019年)美作守
*寛仁4年(1020年)[[修理大夫]]
*寛仁5年(1021年)従三位、皇太后宮権大夫
*治安2年(1022年)正三位
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*万寿3年(1026年)左中将
*長元2年(1029年)権中納言
*長元8年(1035年)[[右衛門督]]
*長元9年(1036年)従二位
*長暦元年(1037年)皇后宮権大夫
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**二男:[[藤原資仲]](1021-1087?)
 
**養子:[[藤原義綱]] - 実は[[延円]]の子
 
== 参考文献 ==
* [[土田直鎮]] 『日本の歴史 5 王朝の貴族』 [[中公文庫]]
* 村井康彦 『平安貴族の世界』 [[徳間書店]]
* 森田悌 『王朝政治』 教育社歴史新書
* 阿部猛 『摂関政治』 教育社歴史新書
* 山中裕 『藤原道長』 教育社歴史新書
 
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[[Category:藤原北家小野宮流|すけひら]]
[[Category:平安時代の公家]]
[[Category:藤原北家|すけひら]]
[[Category:986年生]]
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