「飛鳥浄御原令」の版間の差分

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飛鳥浄御原令が諸官司に頒布されたのは、その直後の同年6月である。律は制定されず、令のみが唐突に頒布されていることから、草壁の死による政府内の動揺を抑え、天武の(律令制定という)遺志の継承を明示するため、予定を前倒しして、令のみが急遽公布されたのだと考えられている。
 
飛鳥浄御原令により、いくつかの重要な事項が本令により定められたとされている。[[天皇]]号は本令により規定されたとする説があるが、むしろ、天武期において天皇号が制定され、本令により法典に明記されたのだとする説が有力である。その他、[[古代の戸籍制度|戸籍]]を6年に1回作成すること(六年一造)、50戸を1里とする地方制度、[[班田収授法|班田収授]]に関する規定など、[[律令制]]の骨格が本令により制度化されたと考えられている。なお、律も併せて制定されたとする説(飛鳥浄御原律令説)もあるが、律は制定されず、唐律が適用されたとする説、そもそもこの時期にはまだ唐律が体系的に伝来しておらず、律の編纂に必要な唐律の体系的伝来が行われておらず、またそれを理解・整理できる人材が揃っていなかったとする説もある<ref>律の条文をバラバラに摂取するだけでは律法典の編纂は不可能であり、唐律全体の伝来とそれを日本の国情に合わせられる人材がいなければ、律の制定は不可能であったとする指摘がある(榎本淳一「〈東アジア世界〉における日本律令制」大津透 編『律令制研究入門』(名著刊行会、2011年)所収)。</ref>
 
飛鳥浄御原令は、急遽施行されたという事情もあり、必ずしも完成された内容ではなかった。そのため、律令の編纂作業はその後も継続していき、最終的に[[701年]]の[[大宝律令]]によって、天武が企図した律令編纂事業が完成することとなった。
 
== 脚注 ==
<references/>
== 関連項目 ==
* [[律令]]