「米比相互防衛条約」の版間の差分

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== 設立 ==
[[ヨーロッパ]]で[[ソビエト連邦]]の影響力が増して、米ソ対立の[[冷戦]]構造が深まる中、[[1949年]]に[[共産主義]]の[[中華人民共和国]]成立に伴って、[[アジア]]が立て続けに共産化するのではといった[[ドミノ理論]]が起こり、[[朝鮮戦争]]によって冷戦構造がいよいよ激化して、アジアにおいても共産主義の[[封じ込め]]を図る必要に迫られたアメリカは、[[1946年]]まで[[植民地]]支配下にいていたフィリピンと正式に集団防衛条約を結ぶことで、米軍をフィリピン国内に駐留させ続け、西部[[太平洋]]における安全保障の一角を担わせることとした。
 
== 冷戦から対テロ戦争へ ==
この体制は[[1989年]]の冷戦終結から[[1991年]]末の[[ソ連崩壊]]によって見直しが図られる。緊張緩和による米軍兵力の削減と、91年の[[ピナトゥボ山]]大噴火によって基地が被災したことにより、両政府間で在比米軍の撤去が決定した。まず[[クラーク空軍基地]]から撤収をはじめ、[[1992年]]に[[スービック海軍基地]]からも撤収して、フィリピンはアメリカの軍事的な影響下から離脱した。また、[[ビル・クリントン]][[アメリカ合衆国大統領|米大統領]]が軍事費削減を政策としたため、[[1995年]]を最後に米比共同の[[軍事演習]]も取りやめとなった。
 
ところが、この米軍撤収の直後から、[[南シナ海]]で中国と[[東南アジア]]各国が領有を主張する[[南沙諸島]](スプラトリー諸島)において、[[中華人民共和国|中国]]軍の活動が活発化し、フィリピンが領有権を主張する環礁([[ミスチーフ礁]])を占領して建造物を構築した。また米軍・米政権内でも中国脅威論を唱え始め、[[2000年]]に共同軍事演習を再開した。