「フリーメイソン」の版間の差分

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友愛団体に変貌したフリーメイソンリーは、イギリスから、商業や文化のネットワークを介して、[[ヨーロッパ]]諸国、[[ロシア]]、[[アメリカ大陸]]、さらには西欧諸国従属下にあるアフリカやアジアの[[植民地]]にまで広まった(ただし、植民地や居留地におけるロッジは初期はあくまで居留民のためのものであり、現地人の入会は認められなかった)。民間人を対象とする国際的な互助組織がない時代だったので、会員であれば相互に助け合うというフリーメイソンリーは、困難を抱えた人間にとって非常にありがたかった。[[ウィーン]]のロッジに加入していた[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|モーツァルト]]はフリーメイソン兄弟に借金の無心をするなど、つてを頼っている。
 
フリーメイソンリーが広まった時期は、絶対王政から啓蒙君主、市民革命へと政治的な激動が続く時代でもあり、特定の宗教を持たずに理性や自由博愛の思想を掲げるヨーロッパ系フリーメイソンリーは、特定の宗教を否定することから、自由思想として[[カトリック教会]]などの宗教権力からは敵視された。とりわけ[[フランス革命]]の当事者たちの多くがフリーメイソンであったため、しばしば旧体制側から体制を転覆するための[[陰謀]]組織とみなされた。[[ナチス・ドイツ]]の時代には[[マルクス主義]]や[[自由主義]]とともに民族の統一を阻む抹殺されるべき教説<ref>[[南利明 (法学者)|南利明]][民族共同体と法―NATIONALSOZIALISMUSあるいは「法」なき支配体制―(3) http://ir.lib.shizuoka.ac.jp/handle/10297/3566 3 ]</ref>として扱われ、弾圧を受けた。[[アメリカ独立戦争|独立戦争]]にかかわった多くの会員がいた[[アメリカ合衆国|アメリカ]]においても白眼視される傾向があった。ちなみにニューヨークの[[自由の女神像]]はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物という側面もあり、台座の銘板にはその経緯と紋章がきざまれている<ref>[http://www.cobhammasons.org.uk/charivar.htm Masonic Miscellanea] [[コブハム]]・ロッジ公式サイト(英語)</ref>。
 
カトリックとの対立関係は長く、[[1738年]]に時の[[教皇|ローマ教皇]][[クレメンス12世 (ローマ教皇)|クレメンス12世]]がフリーメイソンの[[破門#キリスト教|破門]]を教書で宣告した(ただし、直接対立したのは前述の[[フリーメイソン#フランス大東社とフランスでの動向|フランス大東社]]系が中心)。もっとも、カトリックの影響力低下もあり、もとよりイギリスなど[[プロテスタント]](あるいは[[イギリス国教会]])諸国では破門の影響はほとんどなかった。一方カトリックの少なくないフランスでは、両者の対立はカトリックによる一方的な圧力に留まらず、逆に政教分離を主張したフリーメイソンリーなどの影響で、公立学校から聖職者が追放される事態も起こった。[[1983年]]に破門は一応解除されたが、カトリックは公的にフリーメイソンを危険視する姿勢を崩していない。しかし、カトリックでフリーメイソンリーに入会する者は少なくないという。
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フリーメイソンに関する歴史や[[テンプル騎士団]]との関係については、M.ベイジェント、R.リー『テンプル騎士団とフリーメーソン』(林和彦訳、三交社刊)に詳説されている。
 
元フリーメイソンであった創始者による新宗教も多く、[[モルモン教]]の創始者ジョセフ・スミスならびに二代目大管長ブリガム・ヤング(加入はブリガム・ヤングが先)、[[エホバの証人]]([[ものみの塔聖書冊子協会]])の創始者[[チャールズ・テイズ・ラッセル]]、[[クリスチャンサイエンス]]の創始者メリー・ベーカー・エディらがいる。
 
また、[[ロータリークラブ]]の創始者である[[ポール・ハリス]]はフリーメイソンであったが、社会奉仕と慈善活動に専念する公開結社として、ロータリークラブを設立したといわれている。ただし、ロータリークラブ側は、組織としてのフリーメイソンリーとのつながりは否定している。