「アンドレイ・イヴァノヴィチ (スターリツァ公)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
3行目:
1505年に兄[[ヴァシーリー3世]]が即位した時、アンドレイは14歳だった。他の兄達と同じく、アンドレイもまた大公に世継ぎが生まれるまで結婚を禁じられた。その世継ぎが生まれたのは1530年と遅かったが、1532年大公家に二番目の王子が生まれると同時に、アンドレイは妻を娶るのを許された。数ヵ月後の1533年2月2日、アンドレイは[[ゲディミナス朝]]の流れをくむ公女エウフロシニヤ・アンドレエヴナ・ホヴァンスカヤと結婚し、同年の暮れに一人息子[[ウラジーミル・アンドレエヴィチ (スターリツァ公)|ウラジーミル]]が生まれた。
 
1533年3月にヴァシーリー3世が死去すると、アンドレイは寡婦となった[[エレナ・グリンスカヤ]]に自領の加増を要求したが、エレナはこれを拒否したためアンドレイは腹を立ててスターリツァに戻った。自領への帰還直後に、アンドレイは唯一生き残っていた兄[[ユーリー・イヴァノヴィチ (ドミトロフ公)|ユーリー]]が捕えられて獄死したことを知った。このため彼は[[モスクワ]]を訪れるようにというエレナの執拗な誘いに乗らず、3年間をスターリツァでの隠棲生活に費やした。この間アンドレイは現在に残る美しい聖堂を建立しているだが

1537年、アンドレイが隣国[[リトアニア大公国|リトアニア]]への亡命を計画しているという噂が流れた。これを聞いたエレナはリトアニア国境を封鎖し、アンドレイを逮捕させるべく寵臣イヴァン・オフチーニン=テーレプニェフ=オボレンスキー公を急派した。アンドレイは[[ノヴゴロド]]に逃亡して支持者を募ろうとしたが、軍を組織するほどの求心力もなく、オボレンスキーに投降した。彼はモスクワで尋問されたのち、妻子とともに投獄された。アンドレイはその数ヵ月後に獄死し、スターリツァの分領は息子ウラジーミルに相続された。
 
{{DEFAULTSORT:あんとれい いうあのういち}}
[[Category:モスクワ・ロシア]]
[[Category:リューリク朝]]
[[Category:獄死した人物]]
[[Category:1490年生]]
[[Category:1537年没]]