「山岳ベース事件」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
1行目:
{{暴力的}}
'''山岳ベース事件'''(さんがくベースじけん)とは[[1971年]]([[昭和]]46年)から[[1972年]]([[昭和]]47年)にかけて、左翼過激派グループ[[連合赤軍]]が起こした同志に対する[[私刑|リンチ]][[殺人事件]]。当時の社会に強い衝撃を与え、同じく連合赤軍の起こした[[あさま山荘事件]]とともに日本の[[新左翼]]運動が退潮する契機となった。
 
== 概要 ==
[[1960年代]]以前の日本では学生や労働者による[[政治運動]]や[[政治活動]]が盛んであった。そんな中、学生を中心とした[[新左翼 (日本)|新左翼]]諸派は、[[1967年]]([[昭和]]42年)頃より急速にその活動を先鋭化させていった。新左翼の過激な闘争は当初社会の注目を浴びたが、一般市民は次第に彼らの運動に賛同しなくなっていく一方で、警察は新左翼に対してより強硬で暴力的な姿勢で臨むようになり、そうした時流や風潮に納得できない一部の若者たちは、より過激な活動を行うようになった。その中でも最過激派の代表格が、[[1969年]]([[昭和]]44年)9月に公然と登場した[[共産主義者同盟赤軍派]]、及びほぼ同時期に過激な闘争を開始した[[日本共産党(革命左派)神奈川県委員会]](京浜安保共闘)で、同年10月の[[10.21国際反戦デー闘争 (1969年)|国際反戦デー闘争]]や同11月の[[佐藤首相訪米阻止闘争]]で新左翼主流武闘派や[[全学共闘会議|全共闘]]が壊滅し政治運動が穏健化する中、彼らは[[ハイジャック]]やダイナマイト闘争などを行い、その活動をより先鋭化させていった。
 
[[1971年]]([[昭和]]46年)に入ると、革命左派は[[真岡銃砲店襲撃事件|銃砲店を襲撃]]を起こし銃で武装するようになり、赤軍派は[[PBM作戦|金融機関襲撃]]による資金獲得を行うようになる。彼らに対する警察の取り締まりは一段と厳しくなり、また革命左派や赤軍派も警察に対して「殲滅戦」(殺害)を企てるようになっていった。この頃から[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]等の新左翼主流派勢力や[[ノンセクト・ラジカル]]も過激な闘争を復活・先鋭化させるようになり、交番爆破や[[東峰十字路事件]]のような機動隊員の殺害事件も起こるようになった。
 
そんな中、[[連合赤軍]]として共闘関係を結んでいた赤軍派と革命左派は、警察の厳しい追及によって活動に行き詰まり、「殲滅戦」においても他党派に遅れをとるようになり、事態を打開するため共同の軍事訓練を行うこととなった。その最中、「[[総括 (連合赤軍)|総括]]」と称する[[リンチ]]で短期間に30名弱のメンバー中12名を殺害し、自ら組織を弱体化させ大量殺人事件が[[山岳ベース事件]]である。その後、その残党である5名が[[軽井沢]]の別荘「[[あさま山荘]]」に立てこもり、警官隊と銃撃戦を繰り広げ、警官2名と民間人1名を射殺する「[[あさま山荘事件]]」を起こすことになる。
 
なお、[[1971年]]([[昭和]]46年)[[8月]]には革命左派において山岳ベースを脱走したメンバー2名を「処刑」する[[印旛沼事件]]が起こっており、同志殺害という一線は既に越えられていた。当時、この事件は両派幹部内での秘密であったが、革命左派の被指導部メンバーには「処刑」にづいていた者がいたとされている。
 
=== 連合赤軍の山岳ベースへの集合 ===
[[連合赤軍]]の母体の一つである[[日本共産党(革命左派)神奈川県委員会|革命左派]]は、テロを行ったメンバーの多くが指名手配されたりしたために都市部で自由な行動ができなくなっていた。そこで、警察の目の届かない山岳地帯に軍事教練や今後のテロ作戦のための拠点となる「山岳ベース」と呼ばれる[[アジト]]を築いた(山岳ベースは、脱走者の発生、他人に目撃される等の事情で、各地を転々とした。名称は「榛名ベース」のように「地名+ベース」で呼ばれた)。連合赤軍のもう一つの母体である[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]も、都内アジトを拠点としつつ山岳ベースの設置を目指すようになった。[[1971年]]([[昭和]]46年)[[7月]]に名目上結成された連合赤軍は、同年12月初頭に赤軍派の新倉ベース([[山梨県]])で初の合同軍事教練を行った。その後12月20日頃から始まった革命左派の[[榛名]]ベース([[群馬県]])で行われた両派の指導部会議において「新党」の結成が宣言され、両派のメンバーが山岳ベースに集合することとなった。山岳ベースに集まったメンバーはのべ29人(内女性は10人)であった。
 
=== 総括開始 ===
榛名ベースでの「新党」においては、「'''[[総括 (連合赤軍)|総括]]'''」と称するグループ内部でのメンバーに対する批判や自己批判がエスカレートするようになった。総括対象者は最初は作業から外されるだけだったが、間もなく長時間の正座、更には激しい殴打、ついには死者を出すようになった。総括による犠牲者の多くは榛名ベースで出たが、その後脱走したメンバーが出たため移動した[[迦葉山|迦葉]]ベースでも複数の犠牲者が出た。メンバーのさらなる脱走で迦葉ベースを放棄して移った[[妙義山|妙義]]ベースで最後の犠牲者が出た。「総括」の対象者は連合赤軍リーダーの[[森恒夫]]が独断で決定した。
 
==== 総括 ====
'''総括'''とは、本来は過去を振り返る「[[反省]]」を意味した。当時の左翼の政治運動家の間で好んで使われた思考法である。しかし、連合赤軍では次第に総括が儀式化し、実態は[[私刑リンチ]]と化していった。連合赤軍のリーダーであった[[森恒夫]]は「'''殴ることこそ指導'''」と考えていた。殴って気絶させ、目覚めたときには別の人格に生まれ変わり、「共産主義化」された真の革命戦士になれるという倒錯した論理を展開し、仲間にも強制したが、絶対的上下関係の中でその思考は疑われることなく受け入れられていった。総括はあくまでも「援助」であり、「お前のためなんだぞ」といいながら殴り倒した。メンバーの一人は「俺のことを小ブル主義者と呼んだだろ」と口走ったことで、個人的な怨みで総括を行っているとして、総括要求された。散々殴られたうえにロープで吊るされ、さらに激しい暴行を加えられ、[[1971年]]([[昭和]]46年)[[12月31日]]死亡した。メンバーは総括で予期せぬ死者を出したことに一時は動揺したが、森はこれを「総括できなかったための敗北死」とし、総括を継続した。
 
=== 虐殺 ===
「総括」は建前は相手を「革命戦士として自ら更生させる」ことを目的としており、周囲のものが暴力をふるうことは「総括援助」と称して正当化された。後に、暴力はそれをふるう側にとっても「総括」であるとされ、自身の「総括」のためにもより一層の暴力をふるうことが要求されるようになった。リンチは非常に凄惨で、激しい殴打を伴った。被害者らの死因は激しい殴打による内臓破裂や、氷点下の屋外にさらされたための[[凍死]]であった。「総括」にかけられたメンバーのうち、少数は自身に暴力がふるわれていることに対して抗議めいた態度を示したが、多くはされるがままに暴力を浴び続けた。中には自ら殴られることを願い出たり暴力に対して感謝の言葉を述べる者もいた。
 
一部のメンバーは総括の見込み無しとして「死刑」を宣告された。「死刑」の際、参加しなかったメンバーも同様に「死刑」にされた。この「死刑」は相手を殺害することを目的としたもので、アイスピックやナイフで刺された後に絞殺された。
35行目:
 
=== 事件発覚 ===
そして3月、逮捕された連合赤軍メンバーの供述をきっかけに、事件の全貌が明らかになった。僅か2ヶ月足らずの間に同じグループ内で仲間を12人も殺害した凄惨極まりない事件は、当時の社会に大きな衝撃を与えた。
 
[[あさま山荘事件]]終結後も、[[日本社会党]]の議員や左派系マスメディアの中には、連合赤軍を擁護する主張・言動を続けていた者が少なからず見られた。しかし、あさま山荘事件とその直後に発覚した山岳ベース事件の真相と連合赤軍の実態が明らかにされるにつれて、連合赤軍を擁護した者たちの面目と社会的信用は丸つぶれとなった。かくて、左派として行動・主張してきた者たちも悉く一斉に手の平を返し、赤軍を批判する側へと回っていった。
 
日本国内では、これまで[[左翼運動]]を否定的に見ていた人間はもちろん、左翼運動を好意的に見ていた人間も、この事件によって[[]]を嫌悪するようになっていった。それまで世論の一部に存在していた連合赤軍に同調する動きもまた、一気に冷却・縮小していった。
 
左翼党派においては、[[日本共産党]]と[[日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派|革マル派]]は連合赤軍を強く非難し(日本共産党および革マル派は元々自党派以外の左翼党派を全否定しており、連合赤軍についても当初より全否定していた)、日本共産党は街宣車で連合赤軍を非難して回るなどした。日本共産党はこの事件を[[中国共産党]]批判に、革マル派は中核派批判に利用した。[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]は沈黙を守った。毛沢東主義諸党派もほぼ沈黙した。連合赤軍の母体の一つである[[日本共産党(革命左派)神奈川県委員会|革命左派]]は、一連の事件を「反米愛国路線の放棄」と総括し、自分たちの指導に従わなかったのが原因だとした。[[共産主義者同盟|ブント]]系諸党派は発言と沈黙を繰り返した。[[共産主義者同盟蜂起派|蜂起派]]では激しい議論が起こり、[[情況派]]等でも議論が交わされた。[[共産主義者同盟赤報派|RG派]]は一連の事件を新左翼全体に突きつけられた自分たち自身の問題とし、連合赤軍を支持した。連合赤軍のもう一つの母体である[[共産主義者同盟赤軍派|赤軍派]]では、連赤総括を巡って激論が交わされ、分裂状態に陥った。
46行目:
残った連合赤軍メンバー17人は全員逮捕された<!--そのうち少なくとも15人が起訴されているが、最終的に何人が起訴されたか不明。-->。[[1973年]]([[昭和]]48年)[[1月]]に[[森恒夫]]が[[縊死|首吊り自殺]]、[[1975年]]([[昭和]]50年)[[8月]]に[[坂東國男]]が[[クアラルンプール事件]]で[[超法規的措置]]で釈放・国外逃亡し、[[2011年]]現在も[[国際指名手配]]されている。裁判で[[永田洋子]]と[[坂口弘]]は[[死刑]]、[[吉野雅邦]]は無期懲役が確定した。永田と坂口は死刑確定囚として[[東京拘置所]]に収監され、永田は2011年(平成23年)2月5日に[[脳腫瘍]]のために獄中死した。また共犯者が逃亡中であり裁判が終了していないので、残る坂口の死刑が執行される見通しは立っていない。[[日本における収監中の死刑囚の一覧|確定順位]]は15位である。
 
連合赤軍事件によって世論の左翼に対する好意的な見方は一気に縮小したが、その後左翼主流派は血で血を洗う[[内ゲバ]]にのめり込んでいった。内ゲバの凄惨さは、質においても量においても連合赤軍事件をはるかに上回るまでになり、学生運動・左翼運動は殺人と同義と見なされ世間から更に見放されるようになった。
 
一連の連合赤軍事件後、山岳ベース事件でのにおけるリンチ殺人については、元連合赤軍メンバー全員が何の正当性もない犯罪行為と捉えているものと思われる。連合赤軍事件の他にも多くの政治的過激派組織による殺人事件は発生しているが、殺人を犯した党派や実行犯は様々な理由をつけて自己正当化している場合がほとんどであり、当事者による事件の詳細な経緯の発表も当然行われておらず、事件の実態は闇の中となっている場合が多い。そのような中にあって、山岳ベース事件は事件を批判的に捉え返した詳細な記録が複数の当事者により発表されており、事件の実像に迫りやすいという点でも特異な事件である。
 
== 事件の原因 ==
55行目:
[[1979年]]の[[石丸俊彦]]裁判長による判決文では、大量虐殺は「絶対的な権威と権力と地位を確保した森と永田が、その権威と権力と地位を維持確保せんとする権勢欲から、部下に対する不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心により」行われたとされた。[[1982年]]の[[中野武男]]裁判長による判決文ではこれに加え、更に永田について「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」が加わった、とした。
 
連合赤軍最高幹部指導者の[[森恒夫]]は、一切の責任は自身と永田にあるとした。但し後に、革命左派([[川島豪]]ら獄中指導部を含む)に事件の原因を求めることもしている。遺書では、革命左派の誤りを自身が純化させてしまった(革命左派内では適切な党運営により誤りが純化されることは無かった)のが原因だとしている。
 
連合赤軍幹部の[[永田洋子]]、[[坂口弘]]、[[坂東国男]]は、いずれも事件を主導したのは森恒夫だとしている。但し、森は権力欲から総括を行ったのではなく、自身の作った総括の理論にのめり込み、そこから抜け出せなくなったのだとしている。坂口は「極論すれば、山岳ベース事件は、森恒夫の観念世界の中で起きた出来事なのであった」と述べている。永田、坂口、坂東は、いずれもそれぞれの立場から石丸判決、中野判決を批判している。
 
事件の原因については、永田の他のメンバー(特に女性メンバー)に対する嫉妬が原因だとされることもある。連合赤軍被指導部メンバーの[[植垣康博]]は、当初そのような分析を行っていたが、永田にそうではないと指摘され取り下げている。
 
赤軍派と革命左派が両派の路線の違い(赤軍派は広義の[[トロツキズム]]、革命左派は[[毛沢東思想]])を無視して野合したことに事件の原因を求める意見もある(植垣『兵士たちの連合赤軍』など)。これに対して坂東は、両派の路線は内実をなしていなかったとしている。
 
[[加藤倫教]]は自著で「あのとき、誰かが声をあげさえすれば、あれほど多くのメンバーが死ぬことはなかった」「しかし、私にはそれができなかった。それよりも革命という目標を優先し、それに執着してしまったのだ」と述べている<ref>加藤倫教『連合赤軍 少年A』(新潮社、2003年)</ref>。
 
2月上旬に脱走したメンバーは「主観的な行動とうすうす感じつつも武装闘争に殉じたいと思い、それを達成させるための「[[粛清]]」を違和感を'''感じ'''つつも受け入れてしまった(注:原文ママ)」「仲間を殺すことに耐えられなくなった時、私は脱落した」と述べている<ref>『若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(朝日新聞出版、2008年)</ref>。
183行目:
* 『[[光の雨]]』、『[[光の雨 (映画)]]』
* 映画『[[実録・連合赤軍 あさま山荘への道程]]』
* 漫画『[[レッド (山本直樹)]]』
 
== 参考文献 ==