「ギリシャ軍事政権」の版間の差分

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==歴史==
===背景===
[[1958年]]のギリシャ国会総選挙において、[[ギリシャ共産党|共産党]]系の『([[1946年]]に非合法化された)が支持する[[民主左翼連合 (ギリシャ)|民主左翼連合]]{{enlink|United Democratic Left|a=on}}が第二党に躍り出た。この結果には与党である[[国民急進党]]{{enlink|National Radical Union|a=on}}、これまで第二党を担ってきた中道諸政党も驚かざるを得なかった。そのため[[1961年]]10月に行われた選挙では左翼が躍進することにより共産主義勢力の復活を恐れた右派勢力により、ありとあらゆる選挙妨害が行われ、悪名高い『暴力と欺瞞の選挙』と化したが、これは冷戦構造の中、周りを共産主義国家に囲まれており、[[アメリカ]]の地中海戦略の一端を担う国であることが原因であった<ref name="344-5">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.344-245]].</ref><ref name="R167-9">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)pp.167-169]].</ref> 。
 
しかし、このような選挙妨害にも拘らず、中道諸政党が合流した[[中央同盟 (ギリシャ)|中央同盟]]{{enlink|Center Union|a=on}}は33%の得票を得、政権交代が可能な第二党と化した。このため、中央同盟党首[[ゲオルギオス・パパンドレウ]]は民主的な再選挙を要求して『不屈の闘争』を宣言、そして中央同盟と[[民主左翼連合 (ギリシャ)|民主左翼連合]]{{enlink|United Democratic Left|a=on}}は選挙が不正であったとして街頭でデモを行ったが、これを主導していた左翼の国会議員[[グリゴリオス・ランブラキス]]{{enlink|Gregoris Lambrakis|a=on}}が暗殺されたため、それまでの国民急進党政権は方向性を見失い、ギリシャ政局は一気に不安定に陥った。全国規模に広がった民主化要求のために[[1963年]]11月、再選挙が行われたが、穏健な改革政策を唱える中央同盟は[[ギリシャ王家|王室]]{{enlink|Greek Royal Family|a=on}}とアメリカの支持を得た上で世論の支持を集めて勝利を収め、左派の協力を得た上でパパンドレウが組閣、さらに[[1964年]]2月に再選挙が行われ、中央同盟は絶対多数の議席を得、中道単独の政権が樹立された<ref name="G345-6">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.345-346]].</ref><ref name="R169-72">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)pp.169-172]].</ref> 。
 
パパンドレウは政権掌握後、国民的和解を挙げて[[ギリシャ内戦|内戦]]時代から収容されていた政治犯の釈放や[[東側諸国]]との関係改善を進めた。しかし、こうした動きに対してギリシャを地中海東部における共産主義の防波堤と考えていたアメリカや軍内の右派勢力は苛立ちを隠せず、さらに[[キプロス]]内戦|キプロス問題]]が常に彼にパパンドレウ政権の背後に忍び寄っていた。そのため、軍部内の右派は[[中央情報局|CIA]]と協力して『アスピダ(楯)事件』{{#tag:ref|[[エジプト]][[ガマール・アブドゥル=セル|ガマール・アブドゥル=ナセル]]が実行していた政策をたくらアスピダという組織がギリシャ軍内部に存在しており、パパンドレウの息子[[アンドレアス・パパンドレウ]]がその指導者であるとしてギリシャ軍部の右派勢力が政権を攻撃した<ref name="G346">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.346]].</ref>。1967年にこの事件におかれる裁判が行なわれ容疑者である、起訴された多数の将校多数、有罪判決を受けたが、結局アンドレアス・パパンドレウ結局、連座することはなかった上、有罪判決を受けた将校らへ恩赦を行なうべきとする強い圧力が発生した<ref name="CM388">[[#ウッドハウス(近代ギリシャ史)|ウッドハウス、(1997)p.388]].</ref>。|group=#}}を捏造、パパンドレウの息子[[アンドレアス・パパンドレウ|アンドレアス]]{{enlink|Andreas Papandreou|a=on}}がそのリーダーであるとして中傷作戦を開始した。しかし、アンドレアス・パパンドレウは当時、逮捕・不起訴に対する免責特権のある国会議員であったため、アピスダ事件』の容疑者として捕らえることはできなかった<ref name="CM388"/>。
 
[[File:Athens, Omonia Square at 60s.jpg|thumb|200px|アテネ、1960年代]]
これに対してパパンドレウは軍の粛清を図り、王党派のガルファリス国防相や参謀長の更迭を国王に具申したが、国王[[コンスタンティノス2世 (ギリシャ王)|コンスタンディノス2世]]に上奏したが、国王はこれを拒否した<ref name="KG156">[[#スボロノス(近代ギリシア史)|スボロノス、(1988)p.156]].</ref>。
 
さらに、コンスタンディノス2世とパパンドレウの確執も目立ち、1965年7月、パパンドレウ右派勢力や コンスタンディノス2世 対抗辞表を呈上ようするめ、。右派勢力やコンスタンディノス2世 が譲歩に対抗するため、国王の譲歩か議会解散で済むことを期待してパパンドレウが自ら辞表を提出。ところ政治的賭けであったが、パパンドレウの意思に反して コンスタンディノス2世 パパンドレウの辞表罷免受理、中央同盟所属ながら王党派の国会議長[[ゲオルギオス・アタナシアディス=ノヴァス]]{{enlink|Georgios Athanasiadis-Novas|a=on}}を一本釣りする形で首相に任じた<ref name="G346-7">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、pp.346-347]].</ref><ref name="R172-5">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)pp.172-175]].</ref><ref name="CM386">[[#ウッドハウス(近代ギリシャ史)|ウッドハウス、(1997)p.386]].</ref> 。しかしこれは逆に中央同盟側の態度を硬化させアタナシアディス=ノヴァスは国会の信任が得られず組閣大命を拝辞した。コンスタンディノス2世は次いでパパンドレウ政権の内相だった[[イリアス・ツィリモコス]]{{enlink|Ilias Tsirimokos|a=on}}に組閣を命じたものの、ツィリモコスもわずか1ヶ月弱で国会から不信任を受けて辞職するなど危機は収まらず<ref name="G347">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.347]].</ref><ref name="R175-6">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)pp.175-176]].</ref>、 ギリシャ国民はアスピダ事件は軍による政治介入である」」としてギリシャ国民らは「70日間運動」を展開、各地でデモを行なった。
 
同年9月、パパンドレウ政権の副大臣を務めていた[[ステファノス・ステファノプロス]]{{enlink|Stephanos Stephanopoulos|a=on}}が、ツィリモコス、元国防相[[パナギオテイス・カネロプロス]]{{enlink|Panagiotis Kanellopoulos|a=on}}らの支援を受けた上で組閣した。これに猛反発したパパンドレウは集会において革命や君主制の廃止などを訴え始めた。このため1965年9月、国会で内閣信任投票が行なわれたが、辛くもステファノプロスは勝利を収める事ができた。しかし、ステファノプロス政権はが長く続く事はもはや期待できない状態であった<ref name="CM387">[[#ウッドハウス(近代ギリシャ史)|ウッドハウス、(1997)p.387]].</ref>。
国王に忠誠を誓う国会議長の[[ゲオルギオス・アタナシアディス=ノヴァス]]{{enlink|Georgios Athanasiadis-Novas|a=on}}を中央同盟から一本釣りする形で後任の首相として任命したものの、これが逆に中央同盟側の態度を硬化させることとなった。次いで[[イリアス・ツィリモコス]]{{enlink|Ilias Tsirimokos|a=on}}に組閣を命じたものの危機は収まらなかった<ref name="G347">[[#桜井(ギリシア史)|桜井(2005)、p.347]].</ref><ref name="R175-6">[[#クロッグ(ギリシャの歴史)|リチャード・クロッグ、(2004)pp.175-176]].</ref> 。
 
さらにパパンドレウ内閣の副大臣を務めて1年半続いた[[ステファノス・といえども、ステファノプロス政権下のギリシャは[[ストライキ]]{{enlink|Stephanos Stephanopoulos|a=on}}パパンドレウ相次いだ上、海外元か投資家離れ、も見放し始めていた。1966年4月には外相として入閣していたツィリモコス、[[パナギオテイス・が辞任。1966年末にはカネロプロス]]{{enlink|Panagiotis Kanellopoulos|a=on}}らも内閣への支受けた上で組閣し取り下げた。しかし、パパンドレウはこれに猛反発し集会において革命や君主制の廃止などを訴え始めた。このため1965年9月信任投票が行なわれたが左翼右翼両方からくもステファノプロスは勝利の支持収める事ができ失っ。しかし、ステファノプロスの内閣が長く続く事政権もはや期待できな総辞職に追状態であっ込まれた<ref name="CM387-8">[[#ウッドハウス(近代ギリシャ史)|ウッドハウス、(1997)p(1997)pp.387-388]].</ref>。
 
ステファノプロスため後任には1964年の最初の4ヶ月間(第2次と第3次のパパンドレウ政権の間)首相の職にあった[[イオアニス・パラスケヴォプロス]]{{enlink|Ioannis Paraskevopoulos|a=on}}率いる選挙管理内閣組閣さ命じられたが、『アピスダ事件』に関連してパパンドレウが国会議員の不逮捕不起訴特権を選挙期間中に延長する事を提案これをカネロプロスが拒否したため、主要政党らの関係が悪化したことから選挙管理内閣、第2次パラスケヴォプロス政権も総辞職した<ref name="CM388"/>。
さらにステファノプロス内閣は1年半続いたといえども[[ストライキ]]が相次いだ上、海外の投資家らも見放し始めていた。そのため、1966年4月には外務大臣に就任していたツィリモコスが辞任、1966年末にはカネロプロスも内閣への支持を取り下げた。そのため、左翼、右翼両方からの支持を失ったステファノプロスは辞任せざるを得なくなった<ref name="CM387-8">[[#ウッドハウス(近代ギリシャ史)|ウッドハウス、(1997)pp.387-388]].</ref>。
 
そこでコンスタンディノス2世 はパパンドレウを無視してカネロプロスに新たな内閣の組閣を命じたが、カネロプロスは会の信任を得る事ができないとして コンスタンディノス2世 解散をするよう要請上奏、コンスタンディノス2世 それこの上奏認め裁下した。そしてこれを受け、カネロプロスとパパンドレウの間で会談が持たれ、1967年5月28日に総選挙を行うことまり、カネロプロス率いる選挙管理内閣が組閣された。かし総選挙で中央同盟が勝利することは確実な状況であった<ref name="G347"/><ref name="R175-6"/><ref name="CM389"/> 。
そのため、[[イオアニス・パラスケヴォプロス]]{{enlink|Ioannis Paraskevopoulos|a=on}}率いる選挙管理内閣が組閣されたが、『アピスダ事件』に関連してパパンドレウが国会議員の不逮捕不起訴特権を選挙期間中に延長する事を提案、これをカネロプロスが拒否したため、主要政党らの関係が悪化したことから選挙管理内閣も総辞職した<ref name="CM388"/>。
 
そこでコンスタンディノス2世 はパパンドレウを無視して、カネロプロスに組閣を命じたが、カネロプロスは議会の信任を得る事ができないとして コンスタンディノス2世 に議会解散をするよう要請、コンスタンディノス2世 はそれを認めた。そして、カネロプロスとパパンドレウの間で1967年5月28日に総選挙を行うことを決定、カネロプロス率いる選挙管理内閣が組閣された。しかし、中央同盟が勝利することは確実な状況であった<ref name="G347"/><ref name="R175-6"/><ref name="CM389"/> 。
 
===クーデター===