「シロ (アストゥリアス王)」の版間の差分

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==生涯==
王位継承法は、[[西ゴート王国]]時代は[[選挙|選挙制]]であったが、それでも王家の者に限定されていた。そして親から子への継承が不可能な場合は、王の娘の夫である他の王族男性が継承した<ref> José Antonio Escudero (ed.), Javier Alvarado Planas, José Mª de Francisco Olmos. (2008) ''El Rey. Historia de la Monarquía. Vol 1.'' Ed. Planeta. ISBN 978-84-08-07696-4. pp. 22-25.</ref>。
 
西ゴートの選挙制については、上記の王家の血統内における母系による継承法など、多くの議論と説がある<ref> Elección de tipo visigodo: Claudio Sanchez Albornoz. ''Viejos y nuevos estudios sobre las instituciones medievales españolas. Vol II'' (1983). Matrilineal: A. Barbero y M. Vigil. ''La formación del feudalismo en la península ibérica'' (1978). Hereditaria dentro del linaje real: A. Besga Marroquín. ''Orígenes hispano-godos del reino de Asturias'' (2000). Todos ellos citados por José Antonio Escudero (ed.), Javier Alvarado Planas, José Mª de Francisco Olmos. (2008) ''El Rey. Historia de la Monarquía. Vol 1.'' Ed. Planeta. ISBN 978-84-08-07696-4.</ref>。シロが継承したこのパターンは、理論で説明がなされ正当化されている。
 
アルベルデンセの[[年代記]]によれば、シロは[[ムスリム]]と平穏に共存した。なぜならばシロの母親はイスラム教徒であったとされ、彼女は[[人質]]として[[コルドバ]]に送られていた<ref name = "Origenes">[[Claudio Sánchez Albornoz|Sánchez Albornoz, Claudio]]. ''Orígenes de la Nación Española. El Reino de Asturias''. Capítulo IV: El reino de Asturias se afirma. p. III-138 </ref>。しかしこれらについては非常にあいまいであり、納得させられる説明がない。
 
アストゥリアス王国に関してイスラム教徒は不干渉であった。シロの治世は、778年にカール大帝がスペインに介入したときと一致する。カール大帝は[[サラゴサ]]の包囲を崩すことができず、敗北に苦しみ、[[ロンセスバーリェス]]における大敗につながった<ref>[[Indro Montanelli]], Roberto Gervaso (2002) ''Historia de la Edad Media''. Ed. Random House Mondadori. ISBN 84-9759-121-6. Cap. XXXII, p.276 </ref>。そして781年にアブド・アッラフマーン1世は[[エブロ川]]谷へ遠征し、[[フランク人|フランク族]]の侵攻を主導した人々へ復讐した。
 
しかし、[[フルエーラ1世]]の時代に続いて[[ガリシア王国|ガリシア]]で第2の[[反乱]]が引き起こされた。反乱軍は軍を集結させ、クベイロ山のふもとでシロ軍を迎え撃った。反乱軍は敗北し、鎮圧された。
 
シロの治世で知られるのは、[[イベリア半島]]で最も古い中世の文書'''Diploma del rey Silo'''<ref>{{cite book|last=García Leal|first=Alfonso|title=El diploma del rey Silo|year= 2008|publisher=Fundación Pedro Barrié de la Maza, Conde de Fenosa|location=A Coruña|series=Colección Galicia Histórica|language=[[スペイン語]]|isbn=978-84-95892-36-2}}</ref>である。775年8月23日、王は今日[[トラバーダ]]と呼ばれる、[[ローマ]]のLucis(現在の[[ルーゴ県|ルーゴ]])にある集落Tabulataにおいて様々な宗教的な資産に対して寄進を行った。付与[[契約書]]pro animaは外交文書として研究されている<ref>[Media: http://www.tabulata.com/linktrab.htm]</ref>。
 
王位についたシロは、地元貴族階級の一部とともに首都をカンガス・デ・オニスからプラビアへ移転させ、貴族たちの土地を手に入れた。プラビアへの宮廷移転には戦略上の理由があった。プラビアはローマ時代からある定住地であり、ナロン川谷の中間にあった。さらに、アストゥリカ・アウグスタ([[アストルガ]])のそばにある[[ローマ街道]]の要所であった。最後に、[[ガリシア王国]]が拡張することで、カンガス・デ・オニスはあまりにも辺鄙な土地となってしまったためである。
 
子供のないシロと王妃アドシンダは、[[フルエーラ1世]]の子でアドシンダの甥である[[アルフォンソ2世 (アストゥリアス王)|アルフォンソ]]を支持し、まだ非常に若いうちからパラティウム知事に任命していた。
 
783年、シロはプラビアにて没した。王妃アドシンダはシロが亡くなる前にアルフォンソを後継指名していたが、反乱が起きてアルフォンソ1世の庶子でイスラム教徒の[[奴隷]]の子孫である[[マウレガート]]が王位についた。
 
アストゥリアス王が建立したプラビアのサン・フアン教会に、シロの遺体は埋葬された。教会内には今もシロとアドシンダの墓が保存されている。