「メノルカ島侵攻」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
39行目:
イギリス軍はメノルカ島南部海岸に哨塔を建てており、艦隊が接近するのを視認していた。急報が即座にマオーに送られた。さらに島の中心のトロ山にあった哨塔からのより詳しい報告で情報が補われた。正午までにはマオー周辺のイギリス軍関係者の大半がセントフィリップ砦の壁の中に移動しており、港入口には鎖が固定され、狭い海峡には小さな船が沈められて、海からの侵入を不可能にした。知事の家族を含め非戦闘員は[[ヴェネツィア]]人の船に乗って安全な[[イタリア]]に出港する準備を行い、[[フィレンツェ]]にあるイギリス軍護衛部隊に侵略に関する情報を伝えるようにされた。その伝言には守備隊が「良好な健康状態と士気」にあり、「果敢な抵抗」を行うという言葉で締め括られていた<ref>London Gazette, 11 September 1781 — gazettes-online.co.uk</ref>。この船は8月31日に[[リヴォルノ]]に到着した<ref>London Gazette, 15 September 1781 — gazettes-online.co.uk</ref>。スペイン軍がマオーの町に入ったとき、町に残っていた住民の大半はスペイン側であり、歓呼の声で迎えられた。ジョージタウンでは152名の捕虜が捕らえられ、シウタデリャとフォルネルスに派遣された部隊は8月20日に約50名のイギリス兵を見付けただけだった。島をスペイン軍の管理下に置く処置が取られた一方で、クリヨンとマリー知事の間で手紙が取り交わされ、侵攻軍は反撃に備えてその防御を固め始めた。8月23日までにメノルカ島には7,000名以上のスペイン兵が上陸しており、さらに3,000名が間もなく加わった。侵攻軍がその地歩を固めると、艦隊の大半はメノルカ島を離れ、ギシェンは9月15日にブレスト港に戻った。
 
この侵攻の報せが約4週間後にイギリス本国に知らされると、新聞は守備隊が5,660名居ると報じたが、そのうち1,500名は地元民兵であり、400名は文民労働者だった。これら集団のうち極少数が砦の中に入ったが、イギリスがメノルカ島に迎え入れていた国際的な事業集団、すなわち北アフリカ人、[[ユダヤ人]]、[[ギリシャ人]]等は入らなかった(アフリカ人とユダヤ人の社会に残っていた者達は9月11日にスペイン軍によって追放され、他の国の者達もその後に追放された)。また守備隊の数には島の他所で侵略軍に捕まった者も含まれていたので、砦守備隊の戦闘要員は3,000名足らずであり、数字を大きく報道したのは侵略軍の意気を落とすための誇張と見られている。
 
== 包囲戦の開始 ==
50行目:
11月11日、包囲軍の迫撃砲が運用を開始された。最初の数日で砦に与えた損傷と言えば小さな6ポンド砲1門の砲架を壊したことだった。砦から放たれた砲弾が迫撃砲の火薬庫に着弾し、迫撃砲1門が破壊された。砦の砲手はジョージタウンの桟橋で荷卸しをしていた補給船1隻を沈めることにも成功した。この情報はマリーから11月12日と13日付けの2通の手紙で報告され、イングランドには12月4日までにもたらされた<ref>London Gazette, 4 December 1781 — gazettes-online.co.uk</ref>。イギリス政府からもマリー宛ての手紙が到着し、守備隊の勇気を称賛し、できるだけ早く救援を送ることを約束していた。実際にはジブラルタルも包囲されており、イギリスは1年以上の食糧備蓄を含め、1756年の戦い後にセントフィリップ砦に成された慎重な改良に依存していた。
 
スペイン軍砲兵による砦への砲撃が2か月近く続いた後の1782年1月6日が最終攻撃の始まりとされた。この攻撃の初日、100門のカノネード砲と35門の迫撃砲から砦の外郭に激しい砲撃が行われて損傷を与えたので、マリーは全将兵を砦の内郭まで退かせるしかなくなった。しかし、守備側を怯ませた砲撃によって、200門のカノネード砲と40門の迫撃砲を持っていた守備側も攻撃側に対する砲撃を始めさせることになり、1月12日にはもう1隻補給船を沈めた。その3日後、攻撃側が照準を良く定めた焼夷擲弾を重要な倉庫に命中させて炎上させ、報復を果たした。その倉庫には砦の物資の中でも塩漬け肉が多く保管されており、4日間燃え続けた。この頃にマリー知事と副知事のドレイパーとの関係が完全に破綻しており、ある不愉快な事件の後で、マリーがドレイパー解任した。
 
== 神による敗北? ==