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笑太夫 (会話 | 投稿記録)
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豊国は[[連歌]]の名手で教養人、かつ名門の出身ということで家康から厚遇され、零落した但馬山名氏の旗本への取立を願うなど山名氏再興に尽力した。また、自らを追放したかつての家臣たちが流浪しているのを聞き、改めて召抱えたという。ただ、変わり身が早かったせいか、豊国に関する後世の評価は芳しくない。
 
{{和暦|[[1642}}年]](寛永19年)、第3代[[山名矩豊|矩豊]]が黒野村に陣屋を移して地名を'''村岡'''と改めた。但し、[[武鑑]]では[[寛延]]年間頃までは在所を「但州'''志津見'''」と表記されている。
 
第5代目の[[山名豊就]]は江戸幕府[[寺社奉行]]となる。{{和暦|[[1806}}年]](文化3年)、第8代[[山名義方|義方]]が陣屋を尾白山に移し、家格にふさわしい体裁を整えた。
 
村岡は山がちで耕地が少ない土地だったため、歴代領主は鉱山の開発や子牛市の開催など産業の振興につとめた。特に、第10代[[山名義問|義問]]は新田の開発や教育の振興に力を尽くした名君といわれる。