「鹿内信隆」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
内容全面修正。
17行目:
|親戚      =
}}
'''鹿内 信隆'''(しかない のぶたか、[[1911年]](明治44年)[[11月17日]] - [[1990年]](平成2年)[[10月28日]])は、[[日本]]の[[実業家]]である。初めは[[ニッポン放送]]設立に加わり、後に[[フジサンケイグループ]]会議議長を務めた。
 
==来歴・人物==
=== 生い立ち ===
[[北海道]][[夕張郡]]の、当時は人口6,000人程度の村だった[[由仁町]]に<ref>[[中川一徳]]著『メディアの支配者(上)』234頁</ref>、父・鹿内徹、母・モヨの長男として生まれた<ref>[[佐野眞一]]『あぶく銭師たちよ!―昭和虚人伝』230頁には「鹿内信隆に関する評伝は十指にあまるが、その出生地は自伝も含め、[[北海道]][[夕張郡]][[由仁町]]とされている。しかし鹿内家のそもそものルーツは[[留萌郡]][[留萌町]]で、鹿内信隆は父・徹、母・モヨとの間の長男として明治四十四年十一月、この地に生まれた。」とある</ref>。
 
[[1924年]]([[大正]]13年)[[北海道岩見沢東高等学校|岩見沢中学]]に進むと[[弁論部]]に入って主将を務めたが、鹿内は、「小生意気な子供であった」という<ref>中川一徳著『メディアの支配者(上)』235頁</ref>。
 
[[1929年]]([[昭和]]4年)に単身上京し、[[早稲田第一高等学院]]に入学した。同校では[[演劇]]に熱中、[[左翼]]的空気の中で[[脚本]]や演出を学んだ。この頃の仲間には、後に社会派の映画監督となる[[山本薩夫]]らがいた。3年後に[[早稲田大学]]政経学部に進学した鹿内は[[財政学]]を専攻し、研究サークル「政経攻究会」に所属した。このころの鹿内のあだ名は、“図書館ゴロ”であったという<ref>[[中川一徳]]著『メディアの支配者(上)』235-236頁</ref>。
===学生時代===
[[1929年]]([[昭和]]4年)に単身上京し、[[早稲田第一高等学院]]に入学した。同校では[[演劇]]に熱中、[[左翼]]的空気の中で[[脚本]]や演出を学んだ。この頃の仲間には、後に社会派の映画監督となる[[山本薩夫]]らがいた。3年後に[[早稲田大学]]政経学部に進学した鹿内は[[財政学]]を専攻し、研究サークル「政経攻究会」に所属した。このころの鹿内のあだ名は、“図書館ゴロ”であったという<ref>[[中川一徳]]著『メディアの支配者(上)』235-236頁</ref>。
 
大学を卒業した[[1936年]]([[昭和]]11年)には、当時早稲田大学教授で[[東京日日新聞]]の副主筆も務めていた[[阿部賢一]]の斡旋で[[クラレ|倉敷絹織]](現在の[[クラレ]])に入社した。鹿内は、同社専務で事実上の社長を務めていた菊池寅七に預けられたが、菊池は後に信隆の[[岳父]]となった。鹿内は[[四国]]の[[工場]]に配属され、[[1938年]]([[昭和]]13年)になると、特殊金属を扱う企業として新たに倉敷絹織が設立した三徳工業に転籍した。
 
[[1938年]]([[昭和]]13年)応召し、予備役召集第1回の[[士官候補生]]となり牛込区若松町に置かれていた[[大日本帝国陸軍|陸軍]]経理部に進み、のち主計少尉。軍務時代[[慰安所]]設置などに尽力(本人著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。また、[[日清紡ホールディングス|日清紡]]の営業部長で軍と折衝していた[[桜田武]]や[[日本製紙|大日本再生紙]]社長の[[水野成夫]]らと、需給計画を通じて知り合う事になる。
=== 陸軍~日経連専務理事 ===
[[1938年]]([[昭和]]13年)応召し、予備役召集第1回の[[士官候補生]]となり牛込区若松町に置かれていた[[大日本帝国陸軍|陸軍]]経理部に進み、のち主計少尉。軍務時代[[慰安所]]設置などに尽力(本人著「いま明かす戦後秘史」に詳しい)。また、[[日清紡ホールディングス|日清紡]]の営業部長で軍と折衝していた[[桜田武]]や[[日本製紙|大日本再生紙]]社長の[[水野成夫]]らと、需給計画を通じて知り合う事になる。
 
[[岩畔豪雄]]をリーダーとする陸軍戦備課は[[1938年]]([[昭和]]13年)、軍用の[[製紙業|製紙会社]]・国策パルプを設立し、続いて水野と[[南喜一]]を支援して[[1940年]]([[昭和]]15年)大日本再生製紙を設立するが、鹿内はその担当事務官であった<ref name="人間・水野成夫">松浦行真『人間・水野成夫』[[扶桑社|サンケイ新聞社出版局]] 1973年、巻頭アルバム集6頁、300-328、384、385、水野成夫を偲ぶ1-19頁</ref><ref name="いま明かす戦後秘史上">[[桜田武]]・鹿内信隆共著 『いま明かす戦後秘史』(上巻)、[[サンケイ出版]]、1986年、71-76頁</ref><ref>[[大宅壮一]]『大宅壮一全集 第13巻』蒼洋社、1981年、123-126頁</ref>。ただ、水野は岩畔との関係から[[特務機関#対英インド独立工作における特務機関|インド独立工作]]に一生懸命で、水野に会ったのは戦後だという<ref name="人間・水野成夫"/><ref name="いま明かす戦後秘史上"/>。
 
除隊後の[[1943年]]([[昭和]]18年)、[[鮎川義介]]の日産コンツェルンが資金的にバックアップしていた日本電子工業の創立、戦後の[[経済同友会]]創設に参画。戦時中から仕事の付き合いがあった桜田が鹿内を非常に買い、関東経営者協会の発足で、桜田委員長=鹿内信隆副委員長という労務問題でのコンビを成立させ、これが[[1948年]]([[昭和]]23年)44月の[[日本経済団体連合会|日本経営者団体連盟(日経連)]]設立に至る<ref name="いま明かす戦後秘史上"/><ref name="鹿内信隆は語る">鹿内信隆『鹿内信隆は語る―理想なきものに創造性は生まれぬ』[[講談社]]、1986年、18-25頁</ref><ref name="カリスマの秘密">鹿内信隆『指導者 カリスマの秘密』講談社、1985年、256-286頁</ref><ref>[[文藝春秋]]、1969年4月号、188-201頁</ref>。桜田は日本電子工業の常務だった鹿内を引き抜いて、日経連の初代専務理事として迎えて、桜田総理事=鹿内専務理事として再びコンビを組み、戦後の約10年を[[日本共産党]]に指導されて各地で起ったラジカルな[[労働争議]]を闘った<ref name="カリスマの秘密"/><ref name="鹿内信隆は語る"/>。また桜田の師匠・[[宮島清次郎]]が若手財界人を束ねて帝大同期の[[吉田茂]]政権を支援したことから、桜田を通じて政財界人脈を拡げることになる<ref name="カリスマの秘密"/><ref>阪口昭『寡黙の巨星』[[日本経済新聞社]]、1985年、154-159頁</ref><ref name="鹿内信隆は語る"/>。戦後の混乱期に「[[財界四天王]]」らと共に「財界主流派」の中心メンバーとして、戦後の日本経済の基盤作りを行い、政財界の舞台裏を取り仕切った人物の一人である<ref>[[福本邦雄]]『表舞台 裏舞台―福本邦雄回顧録 』講談社、2007年、33、34、235頁<br />[[田原総一朗]]『戦後財界戦国史 総理を操った男たち』講談社、1986年、9-23、56-75頁</ref>。鹿内自身「私のいちばん記録に残すべき時代は日経連時代なんです」と述べている<ref name="鹿内信隆は語る"/>。
 
[[1954年]]([[昭和]]29年)の[[ニッポン放送]]設立に加わり、[[1957年]]([[昭和]]32年)[[文化放送]]にいた水野と協力して[[フジテレビジョン|フジテレビ]]を開局させた。[[1961年]]、ニッポン放送社長に就任
=== メディアの支配者 ===
[[1954年]]([[昭和]]29年)の[[ニッポン放送]]設立に加わり、[[1957年]]([[昭和]]32年)[[文化放送]]にいた水野と協力して[[フジテレビジョン|フジテレビ]]を開局させた。
{{節stub}}
 
[[1963年]]、同局社長。鹿内の社長・会長時代に放送開始した番組<ref>系列局の[[関西テレビ放送|関西テレビ]]が制作した番組も便宜上含める</ref>としては[[1965年]]に『[[小川宏ショー]]』を放送開始させたのを皮切りに、以降『[[ママとあそぼう!ピンポンパン]]』([[1966年]])、『[[銭形平次]]』(1966年)、『[[3時のあなた]]』([[1968年]])、『[[サザエさん]]』([[1969年]])、『[[ひらけ!ポンキッキ]]』([[1973年]])、『[[タイムボカン]]』([[1975年]])、『ズバリ!当てましょう]]』(第2期、1975年)、『[[プロ野球ニュース]]』([[1976年]])、『[[FNNニュースレポート]]』シリーズ([[1977年]]~[[1987年]])、『[[花王名人劇場]]』([[1979年]])、『[[オレたちひょうきん族]]』([[1981年]])、『[[なるほど!ザ・ワールド]]』(1981年)、『[[おはよう!ナイスデイ]]』([[1982年]])などが挙げられる。
[[1963年]]([[昭和]]38年)同局社長。[[1968年]]([[昭和]]43年)、[[産経新聞社]]社長・フジテレビ会長に就任。[[1969年]]([[昭和]]44年)、[[箱根 彫刻の森美術館]]館長・フジサンケイグループ会議初代議長を務め、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。
 
フジテレビ社長時代の1968年、[[産業経済新聞社|産経新聞社]]社長に就任。1969年、[[箱根 彫刻の森美術館]]館長・フジサンケイグループ会議初代議長を務め、フジサンケイグループ内で絶大な権力を持った。[[1974年]]、郵政官僚出身の[[浅野賢澄]]に社長職を譲り、自らは会長に就任。また、ニッポン放送社長を同郷の後輩である[[石田達郎]]に譲った(石田の後任は鹿内の大学の後輩である[[羽佐間重彰]]で、後にフジテレビ社長も務めた)。
[[1982年]]([[昭和]]57年)、郵政官僚出身の[[浅野賢澄]]にフジテレビ会長のポストを譲る。[[1984年]]([[昭和]]59年)フジサンケイグループ最高顧問の座に就いた。しかし[[1988年]]([[昭和]]63年)、長男の[[鹿内春雄]]が逝去したことを受け、再び議長の座に再就任。[[1990年]]([[平成]]2年)10月28日死去。[[享年]]78。
 
[[1982年]]([[昭和]]57年)、郵政官僚出身の[[浅野賢澄]]にフジテレビ会長のポストを譲る。[[1984年]]([[昭和]]59年)フジサンケイグループ最高顧問の座に就いた。しかし[[1988年]]([[昭和]]63年)、長男の[[鹿内春雄]]が逝去したことを受け、再び議長の座に再就任。[[1990年]]([[平成]]2年)1010月28日死去。[[享年]]78。
=== 鹿内と信州財界 ===
{{出典の明記|date=2010年10月|section=1}}
鹿内の人生であまり知られていないものの一つに信州財界との関わりが挙げられる。鹿内がフジサンケイグループの総帥として財界で大きな影響力を持つように至ったのは信州財界による橋渡しがきっかけだった。
 
鹿内は徹底的な合理主義者として知られ、水野が産経新聞社長に就任した際、「部長以上の管理職は全員クビにした方が良い」と進言した。「産経残酷物語」の[[水野成夫]]でさえ、この一言には耳を貸さなかったが、のちに産経新聞社の経営が再度悪化した際、「僕の言う事を聞かなかったからこうなったんですよ」と水野を責めたという。水野から引き継いだ事業のうち、プロ野球の[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ]]<ref>1969年に[[ヤクルト本社]]に球団保有株式を売却してアトムズに改称、[[1970年]]にフジサンケイグループが経営から撤退しヤクルトアトムズに改称</ref>琵琶湖畔のスキー場・[[びわ湖バレイ|サンケイバレイ]]を手放し、[[日本フィルハーモニー交響楽団]]を解散に追い込む一方、有楽町駅前のラクチョウビルや[[夕刊フジ]](もともと水野が温めていた企画)はフジサンケイグループの収益事業として育成するなど、カネにならない物は容赦なく切り捨てた。
[[1950年]]([[昭和]]25年)に関西を地盤としていた産業経済新聞が東京に進出。5年後の[[1955年]]([[昭和]]30年)に別法人として株式会社産業経済新聞東京本社を設立すると共に同社社長として[[勝田重太朗]]を招請した。勝田は[[信越放送]]社長を務めており、それ以前には信州・[[長野県]]を代表する新聞社である[[信濃毎日新聞社]]の役員を務めていた。相前後して産経社長だった[[前田久吉]]が経営に携わっていた[[時事新報]](※[[福澤諭吉]]が創刊したが、[[毎日新聞東京本社|東京日日新聞]]に合同していたのを戦後に復刊)を吸収合併し'''産経時事'''(東京のみ。大阪は'''産経新聞''')と改題させてとりあえず軌道に乗せている。ここから産経と信州財界のルートが生まれた。
 
=== エピソード ===
[[1956年]]([[昭和]]31年)に[[水野成夫]]社長の求めで、信越放送での勝田の後任社長だった[[野沢隆一]]が[[文化放送]]の専務に就任。文化放送は[[ニッポン放送]]と共同でテレビ局を作るべく奔走しており、当時ニッポン放送の役員だった鹿内はそれを通じて水野と関わりを持ち、更に水野を介する形で信州財界とのつながりができた。[[1958年]]([[昭和]]33年)に前田が経営難を理由に産経を手放すと、当時[[信越化学工業]](信毎と資本的には同系列)[[常務]]だった[[小坂徳三郎]](のちに信毎社長)が経営再建のため鹿内を水野と共に送り込もうと工作。これが実現し、鹿内は常務として産経新聞の経営に関わることが出来た。
 
鹿内(一族)と信州財界は太いパイプで結ばれており、鹿内自身が信州財界に感謝していた証拠もさまざまな形で残っている。[[信越放送]]がラジオの24時間放送を開始した際にニッポン放送の「[[オールナイトニッポン]]」をネットするなど、フジサンケイグループ系列のラジオ局の番組を優先してネットしてもらえるようになり、[[長野放送]]が設立された際[[ニッポン放送]]から'''NBS'''という略称を譲渡され、さらにフジテレビの番組を優先的にネットしてもらえる様になり(結果マストバイ局化が在長民放局の中で早く進んだ)、長野県[[上田市]]武石地区(旧[[小県郡]][[武石村]])の美ヶ原高原に鹿内自身が館長を務める[[彫刻の森美術館]]の姉妹館として[[美ヶ原高原美術館]]がオープンし長野県を代表する観光スポットとなった。
 
鹿内は徹底的な合理主義者として知られ、水野が産経新聞社長に就任した際、「部長以上の管理職は全員クビにした方が良い」と進言した。「産経残酷物語」の[[水野成夫]]でさえ、この一言には耳を貸さなかったが、のちに産経新聞社の経営が再度悪化した際、「僕の言う事を聞かなかったからこうなったんですよ」と水野を責めたという。水野から引き継いだ事業のうち、プロ野球と琵琶湖畔のスキー場・[[びわ湖バレイ|サンケイバレイ]]を手放し、[[日本フィルハーモニー交響楽団]]を解散に追い込む一方、有楽町駅前のラクチョウビルや[[夕刊フジ]](もともと水野が温めていた企画)はフジサンケイグループの収益事業として育成するなど、カネにならない物は容赦なく切り捨てた。
 
=== エピソード ===
*愛称は「ハイジャッカー」。名付け親は、[[司馬遼太郎]](当時、産経記者)といわれる<ref>『週刊ポスト』 2009年6月5日号</ref>。
*役員を務めていた会社には[[労働組合]]を作る事はおろか存在も認めず、作ろうとする者には解雇・配転という形で妨害行為を行った。それ故一部の保守論客からも不評を買っている。産経では主流派の[[御用組合]]化に反発した社員が“闘う”組合(反リストラ・マスコミ労働者会議産経委員会、通称「反リストラ産経労組」<ref>[http://www006.upp.so-net.ne.jp/fujisankei/ フジテレビ・産経新聞の真相](組合公式ページ)</ref>)を結成。後に社長を務めた[[日枝久]]や[[横澤彪]]などのフジテレビ関係者が後に「恐怖政治だった。」と回顧する程であったが、[[五社英雄]]は信隆シンパであったという。一時フジテレビの制作部門が本体から切り離され、子会社として設置した「ワイドプロモーション」所属の社員として本体社員よりも(待遇・給与面において)一ランク下の位置付けで扱われるに至ったのも制作部門の社員に労組の幹部が多数在籍していたことから、部門全体に連帯責任をかぶせる意味合いで採られた措置であるとされている(のちに「ワイドプロモーション」は「フジ制作」に名称を変更、[[1980年]]に本体に吸収されこれによりフジテレビ内の制作部門が完全復活した)。
*社長時代は、フジテレビ・ニッポン放送では正社員にあたるアナウンサーへの女性の採用を禁じ、派遣社員クラスにあたる報道局所属のレポーターとしての採用<ref>いわゆる抜け穴採用。[[1975年]]入社の[[田丸美寿々]]や[[1977年]]入社の[[城ヶ崎祐子]]、[[益田由美]]は[[1981年]]までアナウンサーではなかった。1981年入社の[[本間淳子]]からは正社員として採用している。</ref>や、25歳での結婚退社を強制した。ただし、議長に復帰した1988年は[[雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律|男女雇用機会均等法]]の制定後であったことから、長男の春雄が行った女性差別制度廃止の措置を撤回させることはできなかった。
*「新聞が本当に不偏不党の立場でまかり通るような安泰なものに、今、日本の国内情勢が成っているでしょうか」「敢然と守ろう『自由』、警戒せよ、左翼商業主義!」(産経新聞創刊に際して広告主向け説明会で発言)
*[[1973年]]([[昭和]]48年)、サンケイ紙上に「[[正論 (雑誌)|正論]]」欄登場(のちに論壇誌として独立する)。右派・[[タカ派]]知識人を総動員して[[反共]]・[[国家主義]]を提唱。
*[[1978年]]([[昭和]]53年)55月、編集主幹として、編集の全権を掌握(通常・新聞社においては経営者と編集者は兼務しないことになっている)。
**余談だが、1973年6月に、当時のフジテレビの人気歌謡番組「[[夜のヒットスタジオ]]」で「共産党バンザイ」発言を行った[[前田武彦]]が同年秋の改編で司会を降板したのも、右の前田の発言・行動が鹿内の「反共」の考え方と相容れないものであると判断されたことによるものと言われている。各マスコミは前田に対する批判を展開する論調がある一方で、「鹿内の考えに合わない人間を徹底排除する」という鹿内体制下のフジサンケイグループの企業体質に対して徹底的に問題提起を行う論調もあるなど、「共産党バンザイ事件」は単なる一番組内での不祥事という範疇を超え、マスコミ業界全体の論調を二分させる事態となった。
*[[1989年]]([[平成]]元年)1010月、10億ともいわれる巨費を投じて、[[ロナルド・レーガン]]米前大統領(当時)を招待し、産経新聞では20ページからなる特集記事を掲載。
*[[1978年]]([[昭和]]53年)5月、編集主幹として、編集の全権を掌握(通常・新聞社においては経営者と編集者は兼務しないことになっている)。
*鹿内のフジテレビ社長時代に入社した[[逸見政孝]]は大学の同期で友人でもあった[[松倉悦郎]]と共にフジテレビの入社試験に臨んだが、鹿内から「早稲田の文学部から2人受けているか、君、1人しか受からなかったらどうするかね?」と質問されたという。逸見は「それは困ります」と答えたという<ref>この時、逸見は「松倉にも同じ質問をして同じように答えたのだな」と思ったという。後に逸見・松倉共にフジテレビに入社した</ref>。
*[[1989年]]([[平成]]元年)10月、10億ともいわれる巨費を投じて、[[ロナルド・レーガン]]米前大統領(当時)を招待し、産経新聞では20ページからなる特集記事を掲載。
 
== 略年譜 ==
*[[1911年]](明治44年)
:11月17日 - 北海道夕張郡由仁町に生まれる。
*[[1936年]](昭和11年)
: - 早稲田大学[[政治経済学部]]を卒業し倉敷絹織(現[[クラレ]])に入社。
*[[1938年]](昭和13年)
: - 三徳工業に入社、その後、[[歩兵第25連隊|札幌歩兵第二十五連隊]]に入隊。
*[[1940年]](昭和15年)
: - [[陸軍経理学校]]卒業、主計少尉になる。
*[[1942年]](昭和17年)
: - 陸軍主計[[中尉]]に昇進。
*[[1943年]](昭和18年)
:8月 - 陸軍除隊。日本電子工業取締役に就任。
*[[1946年]](昭和21年)
:1月 - 日本電子工業常務に就任。
*[[1948年]](昭和23年)
:4月 - 日本経営者団体連盟専務理事に就任。
*[[1949年]](昭和24年)
: - [[日本製版]]社長に就任。
*[[1954年]](昭和29年)
:7月 - ニッポン放送専務に就任。
*[[1957年]](昭和32年)
:11月 - フジテレビ専務に就任。
*[[1961年]](昭和36年)
:6月 - ニッポン放送社長に就任。
*[[1962年]](昭和37年)
:11月 - フジテレビ副社長に就任、産経新聞社副社長に就任。
*[[1963年]](昭和39年)
:11月 - 産経新聞社副社長辞任、フジテレビ社長に就任。
*[[1968年]](昭和43年)
:10月 - 産経新聞社社長に就任。フジサンケイグループ会議議長に就任。
:12月 - [[財団法人]][[サンケイスカラシップ]]理事長に選任。
*[[1974年]](昭和49年)
:11月 - フジテレビ、ニッポン放送、産経新聞社長を退任し会長に就任。
*[[1976年]](昭和51年)
:4月 - 産経新聞社社長に復帰し、“サンケイ刷新三ヵ年計画”を発表して1800人の[[人員整理]]を行う。
*[[1979年]](昭和54年)から[[1988年]](昭和63年)まで
:6月 - サンケイスカラシップ会長に就任。(同理事長兼務1982年まで)
*[[1982年]](昭和57年)
:5月 - フジテレビ会長を退任。
*[[1983年]](昭和58年)
:6月 - ニッポン放送取締役[[相談役]]に就任。
*[[1985年]](昭和60年)
:6月 - 産経新聞社長を退任し相談役に就任。
*[[1990年]](平成2年)
:10月28日 - 死去。
 
== 家族・親族 ==
137 ⟶ 77行目:
:[[1972年]](昭和47年)佐藤宏明と結婚。この[[見合い]]話は、佐藤家が宏明の父親をはじめ[[親族]]に[[医者]]が多く、経済界とのつながりを求めたことから始まり、本人同士の意思ですぐにまとまった。<ref>中川一徳著『メディアの支配者(下)』81頁</ref>
 
=== 系譜 ===
<pre>
           頼近美津子 
165 ⟶ 104行目:
   ┗佐藤大四郎
</pre>
 
; 鹿内家([[北海道]][[夕張郡]][[由仁町]])
[[中川一徳]]著『メディアの支配者(上)』によると、
:「父・徹はもともと[[留萌町]]で[[営業写真館|写真屋]]を営んでいたが、小学校もまともに終えていないところへ一念発起し[[歯科医]]を目指した。徹とモヨは[[由仁町]]に移り住み、勉強に励む夫の代わりにモヨが当時としては珍しい女写真師として[[営業写真館|写真館]]を経営し[[家計]]を支えた。徹は写真館に歯科医院を併設、“鹿内歯科医院写真部”と称し、モダンな二階建て家屋を建てた。また相当な山っ気があったようで、ついでに[[金]]や[[クローム]]鉱探しに熱中していたという。そうかと思えば[[昭和]]の初期には、[[神道]]と[[ユダヤ教]]を融合させたような“鹿内教”ともいうべき怪しげな[[宗教]]に熱中した。信隆は女写真師の[[草分け]]を母に、[[歯科医]]にして[[山師]]、[[宗教家]]を父に持つという一風変わった環境で育った。
 
:信隆の実の親は徹とモヨではなく、“I”といい六歳の時に[[養子]]に出されたことになっている。生まれたのも[[留萌町]]である。ただ両家ともに信隆はたしかに徹、モヨの実子に違いないと信じている。たしかに“I家”は信隆の父方の[[祖母]]が後妻として嫁いだ先であり、また徹二十四歳、モヨ十八歳の若さで信隆が生まれたことになるから、しばらく“I家”に預けられたということなのかもしれない。いずれにしろ幼少期に、信隆は[[留萌町]]から[[由仁町]]の鹿内家に引き取られたということになるのだろうが、その詳しい事情はいまとなっては判然としない。それより不可解なのは、歴代の秘書はもちろん家族もその詳しい経緯を知らないことだという。
 
:元秘書の一人は「鹿内さんが[[養子]]になっていることは、業務の中で、[[戸籍]]や一族の関係図などを見た秘書は知っていたが、事情を知っている者は誰もいなかった」という。
 
:誉田によれば、「産経ではかつて社会部出身の一部の幹部を中心に鹿内さんの生い立ちにまで遡って調べる動きがあった。反鹿内の気運は産経で折に触れてくすぶっていたから、いつか狼煙をあげるためのネタを集めていたとも言えるし、より直接的には自分の身を守るための武器にしようとした者もいた。ありていに言えば、“メディアの巨人として脚光を浴びる鹿内というのは出自もはっきりしない、インチキではないのか”という見方が背景にあったということです」という。
 
:また誉田によれば、秘書室あてに、いわゆる情報屋とも[[興信所]]ともつかないところから、信隆の[[家系]]を調べた報告書が送りつけられたこともあった。「あなたはこういう家の出身ですね、と[[養子]]の事実が書いてあった。鹿内さんに『大変です。こんなものが来ました』と報告したら、『カネを払って処理するように』ということだった」という。雄弁な権力者に潜む“空白”が必然的に招き寄せるのは、憶測とネガティブな噂の類である。
 
== 著書 ==
189 ⟶ 116行目:
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
 
198 ⟶ 124行目:
* [http://kotobank.jp/word/%E9%B9%BF%E5%86%85%E4%BF%A1%E9%9A%86 鹿内信隆 とは - コトバンク]
 
{{フジテレビ歴代社長}}
{{ニッポン放送歴代社長}}
{{フジサンケイグループ}}
214 ⟶ 140行目:
[[Category:1911年生]]
[[Category:1990年没]]
 
[[zh:鹿內信隆]]