「山辺の道」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
大和の古道へのリダイレクト
大和の古道から分割
1行目:
#REDIRECT[[大和== 山の辺]] ==
[[ファイル:Yamanobe-no-michi02s3200.jpg|thumb|220px|山の辺の道]]
[[ファイル:Yamanobe-no-michi01s3872.jpg|thumb|220px|「山の辺の道」風景]]
[[奈良盆地]]の東南にある[[三輪山]]のふもとから東北部の[[若草山]]に並んでいる[[春日山 (奈良県)|春日山]]のふもとまで、盆地の東端を山々の裾を縫うように通っているのが、山の辺の道(山辺の道、やまのべのみち)である。山辺の道の道程は、その時々の交通事情により少しずつ変化してきている。山辺の道の名称は、『古事記』では崇神天皇の条「御陵は山辺の道のまがりの岡の上にあり」、同じく景行紀には「御陵は山辺の道上にあり」とあり、これらに由来すると思われる。
 
この山の辺の道は、[[弥生時代]]後期には、[[布留遺跡]]と[[纏向遺跡]]を結ぶ道であったとも推測されている。
 
=== 起点===
現在のその道の起点は、海石榴市(つばいち、椿市:つばきのいち)である。古代には、海石榴市の八十(ヤソ)の衢(ちまた)と称されたところで、桜井市粟殿(おおどの)を中心とした地域であった。平安時代中期の延長4年([[926年]])には椿市観音堂付近が起点の地になった。
 
=== 海石榴市、椿市 ===
この市は、政治の中心が主として[[奈良盆地]]の東南部にあった頃、定期的に市が立って栄えた。また、初瀬川を下り大和川に出る水運ができあがっていたから河港もでき、水陸交通などの要衝の土地であった。その場所は三輪山の南、今の[[桜井市]]金屋付近である。
 
推古紀16年([[608年]])8月の条に「唐の客を海石榴市の衢に迎ふ」とあり、[[隋]]の使者は、[[初瀬川]]を船で遡り海石榴市で船を降り、市(衢)そこで出迎えられ、[[飛鳥]]の[[小墾田宮]]に入京したのであろう。路傍に「海石榴市観音道」の石の道標があり、少し離れたところに「海石榴市観音堂」がある。
 
=== 道程 ===
金屋の集落を後にして三輪山の山麓を北へ行くと三輪山の神[[大物主]]を祭神とする[[大神神社]]につく。三輪山信仰は[[縄文時代|縄文]]または[[弥生時代]]まで遡るかも知れない。
[[古墳時代]]にはいると山麓地帯には全長が200メートルを超える巨大古墳が造られた。『古事記』には、「山の辺の道の勾(まがり)の岡の上(ほとり)に[[崇神天皇]]の[[行燈山古墳|陵]](242メートル)が、「山の辺の道の上」に[[景行天皇]]の[[渋谷向山古墳|陵]](310メートル)があると記している。初期大和政権がこの地に誕生したと考えられている。
 
このように両天皇の墓が「山の辺の道」の岡にあると『古事記』に記されているところから[[8世紀]]の初めにはこの道が出来ており、7世紀末の[[藤原京]]時代にもできあがっていたのではないかと推測できる。
 
現在では静寂さを取り戻しており、山裾の曲がりくねった道ではある<!--が、縄文や弥生の時代から人々によく利用されてきた道であろう-->。また、飛鳥、藤原の時代には、この海石榴市が栄えていた。
 
== 沿線の名所・旧跡 ==
* [[石上神宮]]
* [[内山永久寺]]跡
* [[大和神社]]
* [[西山塚古墳]]
* [[長岳寺]]
* 伝[[崇神天皇]]陵
* [[黒塚古墳]]
* [[櫛山古墳]]
* [[大和天神山古墳|天神山古墳]]
* [[渋谷向山古墳|伝景行天皇陵]]
* [[箸墓]]
* [[檜原神社]]
* [[夜都伎神社]]
* [[三輪山]]
* [[大神神社]]
* [[竹之内環濠集落]]
* [[萱生環濠集落]]
 
== 沿線の施設 ==
* [[天理市立黒塚古墳展示館]]
* [[トレイル青垣]]
 
== 関連項目 ==
{{Commons|Category:Yamanobe-no-michi|山の辺の道}}
* [[日本の古代道路]]
* [[桜井線]](JR西日本。愛称・万葉まほろば線。山の辺の道に並行し、大和三山や藤原京付近などを通過することからこの愛称が制定された)
* [[美しい日本の歩きたくなるみち500選]]