「慶暦の和約」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
13行目:
 
==その後==
和議の成立で宋の北方異民族に対する安全保障が確立され、その後しばしば小さな小競り合いは発生するものの国境の治安が安定するようになった。それにより宋の国内も概ね平和が続き文治主義の下、仁宗の治世は有能な家臣にも恵まれ[[慶暦の治]]と呼ばれる政治的な安定期を迎えた。しかし、文治主義による官吏の増加は周辺異民族への多額の歳幣とともに宋の財政を圧迫し始め、またこれに兵士数の増加による軍事費の増加で大も重なり1048年以降財政は急速に悪化し1060年代に入ると財政支出は赤字に転落した。この財政赤字からの再建の方法を巡り1070年代の[[新法・旧法の争い]]と呼ばれる一連の政争が起こり、政治の混乱と停滞を招き宋の衰退の一因となった。