「マルセル・セルダン」の版間の差分

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強靭なフィジカルとラフさと強打の攻撃的スタイルでKOの山を築き圧倒的な強さを誇示し続けた。メディアや強豪選手が彼の印象的な強さを噂にしたことから世界的に「無冠の帝王」視され、実力と人気ともに充分であった。しかし世界挑戦は遅れることになる。
 
[[1948年]][[9月21日]]に世界初挑戦、“鋼鉄の人”[[トニー・ゼール]]の世界ミドル級王座に[[アメリカ合衆国]]・[[ニュージャージー州]][[ジャージーシティー]]で挑んだ。[[ロッキー・グラジアノ]]の3度にわたる死闘で疲弊した感のあるゼールをスピードで上回り圧倒、11回左フックでダウンさせ12回開始時点でKO、タイトルを[[フランス]]に持ち帰った。大スターの世界奪取を待ち望んでいた祖国の国民はラジオの勝利を伝える報に歓喜し[[パリ]]中が喜びに包まれ、ファンは凄い王者が誕生したと活躍を期待した。
 
[[1949年]][[6月16日]]に“ブロンクスの牡牛”[[ジェイク・ラモッタ]]との初防衛戦が[[デトロイト]](米国)で行われた。当代切っての名うてのファイター同士の一戦は大きな前評判を呼んだ。試合は予想に違わぬ大激戦になったが、セルダンは途中で肩を負傷し左腕を動かせなくなる。それでも戦い続けたが遂に棄権し10回[[テクニカルノックアウト|TKO]]で王座を明け渡した。
 
セルダンは雪辱を切望し、ラモッタも受け入れ[[ニューヨーク]]での再戦が決定する。その報らせを聞いたセルダンは狂喜、「勝つか、死ぬかだ」と言い残しパリから空路で決戦の地へ向かった。だが1949年[[10月27日]]、搭乗した[[エールフランス]]の[[ロッキード コンステレーション|ロッキード コンステレーション L-749]]機が[[北大西洋]][[アゾレス諸島]]付近に墜落、セルダンも不帰の客となった。この事故では、[[ヴァイオリニスト]]の[[ジネット・ヌヴー]]も死去している。
 
不慮の死により世界のトップクラスとの対戦期間は短かったが、世界王座戴冠前の実績が評価されており、強豪王者と評されている。
 
[[1991年]]に国際ボクシング名誉の殿堂([[国際ボクシング名誉の殿堂博物館]])入りをしている。[[パリ]]郊外ブレストには名を冠したドーム型施設のSalle Marcel-Cerdan(Stade Marcel-Cerdan)があり、スポーツを始めとする多目的施設として利用されている。