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古くからの集落は[[境川 (東京都・神奈川県)|境川]]南岸の[[河岸段丘|段丘]]崖の周辺(現・淵野辺本町)に分布する。[[中世]]には段丘崖付近の台地上を[[鎌倉街道]]のうちの一本が通過しており、現在もその古道が断片的に残存する。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にはこの辺りを拠点とした[[淵辺義博]]の活動が伝えられており、現在の淵野辺本町三丁目には淵辺氏の居館跡([[淵野辺城]])が残されている。
 
[[江戸時代]]の'''淵野辺村'''は[[江戸幕府|幕府]]、複数の[[旗本]]家のほか[[烏山藩]]との[[相給]]とされていた。周辺農村[[入会地|入会地]]となっていた台地上の原野の開墾が始まるのは江戸時代後期のことである。[[宝永]]年間に淵野辺村のほか、境川の対岸([[武蔵国]][[多摩郡]])の木曽村、根岸村(いずれも現・[[町田市]])の農民により'''[[大沼新田 (相模原市)|大沼新田]]'''(現・南区西大沼、東大沼)が、[[享保]]年間には同じ淵野辺村、木曽村、根岸村から'''溝境新田'''(現・由野台付近)が開かれた。[[文政]]年間に開墾が進められた'''淵野辺新田'''(現・共和、東淵野辺)には当時幕府の[[勘定方]]出役であった[[最上徳内]]が斡旋に関与している。大沼や鹿沼は水源とするには水量が乏しく、新田はいずれも畑地として開墾された。また、[[薪炭]]を確保するために[[雑木林]]が整備され、その一部は大沼新田の周辺で現在も比較的広い面積が残存している。[[幕末]]から明治に入り、[[横浜港]]からの[[生糸]]の輸出が盛んになると、この地域でも[[養蚕]]が発展し、台地上には[[桑]]畑が広がるようになった。
 
幕府の崩壊後、[[1868年]]([[慶応]]4年・明治元年)に[[神奈川府]]が設置されると、当村のうち旧幕府・旗本領分は同府(まもなく[[神奈川県]]と改称)の管轄となった。烏山藩領分も、[[1871年]](明治4年)7月の[[廃藩置県]]で[[烏山県]]の管轄とされたのち、同年11月の府県再編で神奈川県に移管された結果、当村の全域が神奈川県の所属となった。[[1889年]][[4月1日]]の[[町村制]]施行に伴う[[明治の大合併]]で同じ高座郡の上矢部村、矢部新田村、鵜野森村、上鶴間村と合併して'''高座郡大野村'''の一部となった。
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[[1937年]]([[昭和]]12年)、当時の座間村および新磯村(現・[[座間市]]、相模原市南区」)に[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]が移転してきたことを皮切りに相模原では[[大日本帝国陸軍|陸軍]]施設の移転・新設が相次ぎ、急速に[[軍都]]の様相を呈するようになってきた。当大字周辺では[[1938年]](昭和13年)、隣接する[[上矢部 (相模原市)|上矢部]]、[[矢部新田]]および[[相原村]]の[[小山 (相模原市)|小山]]にかけての広大な敷地(現・中央区上矢部、矢部新田、小山)に相模兵器製造所(1940年に[[相模陸軍造兵廠]])が開設されたのに続いて、同年に陸軍工科学校(1940年に[[陸軍兵器学校]]。上矢部、矢部新田:現・淵野辺一丁目・二丁目)、[[1943年]](昭和18年)に[[陸軍機甲整備学校]](淵野辺、上溝:現・高根三丁目、由野台三丁目、弥栄三丁目)が相次いで開校した。
 
相次ぐ陸軍施設の開設に伴い、高座郡北部の各町村では軍部の後押しもあって大合併の上、一大軍事都市を作る気運が高まり、[[1941年]](昭和16年)[[4月29日]]([[天長節]])に大野村と上溝町、座間町、相原村ほか4村が合併して'''高座郡相模原町'''が発足した。これに先立ち[[1940年]](昭和15年)12月には合併前の大野村、上溝町、相原村にまたがって相模陸軍造兵廠を中心とする計画都市を建設する[[区画整理事業]]が神奈川県によって着工された([[相模原市#軍都計画]]および[[相模原市#相模原町の発足]]を参照)。当大字は相模原町の大字になるとともに、町役場が当大字内に設置された県の相模原都市建設区画整理事務所(現。鹿沼台一丁目。大野北まちづくりセンター付近)内に暫定的に置かれた(1941年9月に町役場は旧上溝町役場に移転した)。[[1954年]](昭和29年)[[11月20日]]の市制施行による'''相模原市'''の成立とともに、同市の大字となった。この間、1941年に当大字の南部が'''大字[[大沼 (相模原市)|大沼]]'''として、[[1952年]](昭和27年)には東部が'''大字[[古淵]]'''として分立した結果、当大字は元の北半部のみに縮小した。
 
[[1945年]](昭和20年)の敗戦後、旧陸軍施設の中には陸軍兵器学校のように細分され学校や研究施設などに転用されたものもあるが、相模陸軍造兵廠と陸軍機甲学校は[[進駐軍]]に接収され、そのままそれぞれ[[在日米軍]]の[[相模総合補給廠]]、[[キャンプ淵野辺]]として利用された。さらに、敗戦前は軍需関連工場であった淵野辺駅南東方の区画(現・淵野辺五丁目)が[[1951年]](昭和26年)に接収されて相模工廠淵野辺工場として利用された。相摸工廠淵野辺工場は[[1960年]](昭和35年)に返還されて一般の工場用地となったが、キャンプ淵野辺の返還は[[1974年]](昭和49年)にまでずれ込んだ。
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* [[カルピス]]飲料食品開発研究所
* [[防衛省]]陸上装備研究所
 
== 参考文献 ==
* 『相模原市史 第四巻』 相模原市
* 『相模原市史 現代図録編』 相模原市、2004年
* 『地名調査報告書』 相模原市教育委員会、1984年
 
 
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