「李自成」の版間の差分

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しかし高迎祥が死んだことにより、反乱軍の勢いは弱まっており、李自成たちは官軍の追及を逃れて陝西省へ退却し、更に山野に隠れざるを得なくなった。このことで李自成軍に対して楽観視した官軍は湖広([[湖北省]]・[[湖南省]])へと移動していた張献忠軍に圧力をかけ、これによって李自成軍は息を吹き返し、河南を落とした。
 
この地で挙人([[科挙]]の郷試(地方試験)を合格して、会試(中央試験)には合格していない者の[[李巌]]と出会い、「'''均田'''」(農民への土地分配)「'''免糧'''」(数年の間の税免除)の二つのスローガンを李巌から提案され、このスローガンと厳正な軍規により農民の支持を集め、一気に数十万の軍勢に膨れ上がった(李巌も今日では清初の小説で創作された架空の人物とされている)。また、[[牛金星]]ら知識人を陣営に取り込んでいく事になる。
 
この勢いに乗って、[[1641年]]には[[洛陽市|洛陽]]を陥落させ、この地に居た[[万暦帝]]の第3子の福王・[[朱常洵]]を処刑した。福王は万暦帝に溺愛され、その贅沢により多額の税金が浪費されたために民衆の恨みを買っていたのである。