「エスコラピオス修道会」の版間の差分

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'''エスコラピオス修道会'''(エスコラピオスしゅうどうかい、[[スペイン語]]:Escolapios)は、[[キリスト教]]、[[カトリック教会]]の男子[[修道会]]。総本部は[[ローマ]]。
 
[[青少年]]の人間的・キリスト教的な教育を通して、社会の刷新を図ることが目的。創始者[[聖ヨセフ・カラサンス]]は「幼い頃からの教育」が重要であるとした為、活動の重点は基礎的な教育及びキリスト教敬要理の教育を目的とした小・中学校に置かれている。
 
広く[[哲学]]・[[神学]]の分野にも着目し、[[ガリレオ・ガリレイ]]や[[トマソ・カンパネッラ]]を認める等、各々の時代における革新的な面に大いに貢献して、[[神学校]]の指導や中央ヨーロッパでの[[対抗宗教改革|反宗教改革]]運動にも加わり実績を残している。
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1597年、聖ヨセフ・カラサンスにより、ローマ郊外の聖ドロテア聖堂に子供たちを集めて、西欧で最初の無月謝の学校が開かれ、多数の教区付司祭の共鳴を得た。
 
1602年、[[クレメンス8世 (ローマ教皇)|クレメンス8世]]は彼らを青少年の教育を目的とする在俗集団として認可。1617年6月13日[[パウルス5世 (ローマ教皇)|パウルス5世]]は、このエスコラピオス在俗集団を「天主の聖母在俗司祭集団」と合併させたが、まもなく分離。1617年「敬慶な学校の神の母の貧しいパウロ修道会(Congregatio Paulina Pauperum Matri Dei Scholarum Piarum)」の名称で通常誓願修道会とされた。1621年、[[グレゴリウス15世 (ローマ教皇)|グレゴリウス515世]]により公式誓願修道会として認可され、翌年当修道会の会意が認めらた。
 
その後、1643年、修道会内外に問題が生じたため、[[インノケンティウス10世 (ローマ教皇)|インノケンティウス10世]]によって1646年に当会は誓願なしの在俗集団に変更され、会は解散の危機に瀕したが、1669年、[[クレメンス9世 (ローマ教皇)|クレメンス9世]]により、再び公式誓願修道会に昇格、以前の権利を取り戻した。以後、当会は世界各地で幅広く活動している。
 
== 来日への過程 ==
1949年12月2日、[[スペイン]]・[[バスク自治州|バスク]]管区長フアン・マヌエル・ディアズ[[神父]]が、エスコラピオス修道会総会長ビセンテ・トメク神父宛に手紙を送った。その内容は、「日本の横浜教区に[[宣教師]]を送りたい」というもの。翌日の12月3日、同総会長神父は、バスク管区長宛に「横浜教区脇田司教と連絡をとって[[宣教師]]を送る約束をし、日本での宣教師の仕事を引き受ける」との手紙を送った。これら2通の手紙は、偶然にも行き違いだったが、バスク管区の神父達は神秘的な感じを受けた。そこで日本行きの志望者を募ったところ、26名にもなり、その中から、フェリチアノ・ペレス神父とペドロ・ルイス・ペレア神父が選ばれ、1950年9月21日スペインを発ち、10月3日に[[羽田空港]]に降り立った。
 
== 外部リンク ==