「足利義氏 (古河公方)」の版間の差分

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→‎生涯: 義氏が鎌倉葛西ヶ谷にいたとする説を提唱した佐藤博信氏が、その後旧説を撤回して葛西城説を唱えているため、葛西ヶ谷説はほぼ成立の見込みはないと思われる。
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[[天文 (元号)|天文]]10年([[1541年]])1月15日、[[足利晴氏]]の次男(異説あり)として小田原城で生まれる(『下野足利家譜』)<ref>下山治久『戦国時代年表 後北条氏編』東京道出版、2010年、p58。</ref>。幼名は'''梅千代王丸'''。父が[[北条氏康]]と[[河越城の戦い]]で、敵として戦って敗れて幽閉されると、[[後北条氏|北条氏]]からの強い意向で[[古河公方]]となったが、弘治元年(1555年)11月の元服は、[[古河城|古河御所]]ではなく[[北条氏]]の一支城であった[[葛西城]](現在の[[東京都]][[葛飾区]][[青戸]])で行われた<ref>「千葉県の歴史 通史編 中世」(2007年刊、千葉県史料研究財団編・千葉県発行)</ref>。このとき室町将軍である[[足利義輝]]から、足利将軍家の通字である「義」の字を偏諱として受け義氏となり、仮冠役は外伯父にあたる氏康が務めた<ref>黒田基樹『戦国関東の覇権戦争』洋泉社、2011年、p74。</ref>。永禄元年(1558年)4月に義氏は、古河公方としては唯一になる鎌倉の[[鶴岡八幡宮]]に参詣し、8月には公方領国入りを果たすものの、その居城も代々の古河城でなく関宿城とされた<ref>黒田基樹『戦国関東の覇権戦争』洋泉社、2011年、pp75-76。</ref>。これらの身上は全て、北条氏の政略上のものとして動かされた。
 
また、のちに[[関東管領]]となった[[上杉謙信]]も晴氏の長男である足利藤氏が正統な古河公方であるとし、次男で異母弟であった義氏の継承を認めなかった。関東における北条氏と、[[上杉氏]]はじめとする反北条氏との攻防の中にあって、義氏は[[小田原]]や[[鎌倉]]葛西ヶ谷など古河と関係ない地を転々とすることになった。なお、『小田原衆所領役帳』では「御家門方 葛西様」と記載されている。
 
[[元亀]]元年([[1570年]])ごろ、[[越相同盟]]の締結条件として上杉謙信からも正統性と継承を認められた。ようやく古河公方として古河に戻ることになったが、それは氏康の子[[北条氏照]]を後見人にするという条件のもとであり、傀儡であることに代わりはなかった。