「中書省」の版間の差分

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[[明]]朝の初代[[洪武帝]]も当初は中書省を設置し、その長官たる丞相が宰相となった。しかし[[1380年]]([[洪武]]13年)の[[胡惟庸|胡惟庸の獄]]を機としてともに廃止された。この中書省も唐代のそれではなく元代の中書省を引き継いだ機関であった。すなわち唐代の中書省は唐末から五代にかけて消滅しており、ここでの元代からの中書省の廃止と混同してはならない。しかしこの洪武帝の中書省廃止は、丞相をはじめとしてあらゆる宰相職を廃止したという意義がある。これによって[[三省六部|六部]]の長官である6人の尚書が直接皇帝の命令を受けるという皇帝独裁体制が成立した。
 
==日本での中書省==
日本では[[中務省]]の[[唐名]]として使われ、[[本多忠勝]](官位は中務大輔)、[[脇坂安治]](官位は中務少輔)などが、本多中書・脇坂中書と呼ばれた。
 
==参考文献==