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'''孫 賁'''(そん ふん、? - [[建安 (漢)|建安]]14年([[210年]])?)は、[[中国]][[後漢]]末の武将・政治家<ref>[[明]]代の[[文人]]に同名の人物がいる。</ref>。[[孫羌]]の子。[[孫輔]]の兄。[[孫鄰]]、[[孫安]]、[[孫煕]]、[[孫績]]、女子<ref>『三国志』呉志「朱治伝」によると、曹操の子の妻になっている。</ref>の父。字は'''伯陽'''。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[呉 (三国)|呉]]志「宗室伝」に伝がある。
'''孫 賁'''(そん ふん、? - [[建安 (漢)|建安]]14年([[210年]])?
)は、[[後漢]]末の武将・政治家<ref>[[明]]代の[[文人]]に同名の人物がいる。</ref>。[[孫羌]]の子。[[孫輔]]の兄。[[孫鄰]]、[[孫安]]、[[孫煕]]、[[孫績]]、女子<ref>『三国志』呉志「朱治伝」によると、曹操の子の妻になっている。</ref>の父。字は'''伯陽'''。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[呉 (三国)|呉]]志「宗室伝」に伝がある。
 
== 生涯 ==
両親は弟の孫輔が幼いときに亡くなった。孫賁が幼い弟を養育し、弟思いと評判になった。後に仕官し、郡の督郵守長まで出世した。
 
叔父である長沙太守[[孫堅]]の挙兵に参加し、孫堅の戦死後はその軍勢を引き継ぎ、孫堅の棺を故郷に送り届けた。
 
後に[[寿春]]に移った[[袁術]]の傘下となった。袁術の命令で[[袁紹]]の傘下である九江太守]][[周昂太守]]周昂を攻撃し陰陵においてこれを撃破した。袁術の上表により、孫賁は[[豫州]][[刺史]]に任命されている。
 
後に[[丹陽]][[都尉]]・征虜将軍に任命され、[[山越]]の討伐にあたった。揚州刺史の[[劉ヨウ (揚州牧)|劉繇]]が袁術に敵対すると丹陽を離れ、配下や幕僚をれて歴陽に戻った。
 
後に袁術の命令で孫賁は[[呉景]]と共に劉繇を攻撃するしたが、劉繇の将軍である[[樊能]][[張英_(後漢)|張英]]の前に苦戦した。[[孫策]]が[[江東]]に渡ってくると、その援助により樊能・張英を破り、劉繇を攻撃して豫章に追いやった。孫賁は呉景と共に袁術へ報告するため、孫策により[[寿春]]に戻されている。
 
袁術が皇帝を僭称すると九江太守に任命されたが、任官せず妻子を捨てて[[江南]]に帰還した。この頃、孫策が[[呉郡]]と[[会稽郡]]を平定しており、孫賁はそのまま孫策に従った
 
孫策が廬江太守[[劉勲]]と江夏太守[[黄祖]]を攻撃するとそれに従軍した。孫策は遠征の帰りに劉繇の病死を知り、豫章に立ち寄って平定し、上表して孫賁を豫章太守とした<ref>『江表伝』によると、廬陵太守を自称する[[僮芝]]という人物に備えるために孫策の命令で孫輔や[[周瑜]]とともに[[南昌]]に残された。孫策は形勢が有利になった後、すぐに攻めかかるように孫賁に命じており、僮芝が病気になったことを知ると孫賁はただちに孫輔と周瑜を使って廬陵を攻略した。</ref>。後に、都亭侯に封じられた。
 
[[官渡の戦い]]のとき、[[曹操]]の重臣の[[夏侯惇]]から手紙で[[荊州]]の[[劉表]]を牽制するよう依頼を受けたことがあるという(『三国志』呉志「孫破虜討逆伝」が引く『志林』)。
 
建安13年([[208年]])、朝廷より[[劉隠]]が使者として派遣され、孫賁は正式に征慮将軍に任じられた。また、豫章太守の職務も引き続き執り行うよう命じられた。
 
曹操が荊州を占拠すると、人質を出して帰順しようとしたため呉郡太守の[[朱治]]にそれを制止されている(『三国志』呉志「朱治伝」)。
 
時期は不明だが、孫賁は官職にあること11年で死去したという。
 
孫賁の後に[[孫皎]]が征虜将軍を継いでいる事また、豫章太守が孫賁→[[孫鄰]]→[[顧邵]]→[[蔡遺]]と引き継がれ、その中で顧邵が豫章太守となって5年で死去した事、また。さらに蔡遺が[[呂蒙]]生存時に呂蒙に推薦されて豫章太守に就いている事、などから総合すると、孫賁は官職(豫章太守)にあること11年で死去していると思われ、210年頃に孫賁は死去したと思われる。
 
== 脚注 ==