「管理通貨制度」の版間の差分

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第一次世界大戦の前後から金(本位金)は経済力の格差からアメリカに集まり、アメリカでは国内で正貨が過剰となって[[インフレ]]が昂進したことから、通貨準備から金の一部をはずす[[不胎化介入|不胎化政策]]をとった結果、金本位制の持つ国際収支調整のメカニズムは失われ金の偏在が進行した。フランスでは第一次世界大戦の賠償金として[[ドイツ]]から1320億[[マルク (通貨)|マルク]]を獲得する請求権を得たが現物給付などにより十分な支払いがなされなかったこともありインフレ([[リーブル]]相場の下落)が発生し、極端な金塊主義政策を採用し本位金の備蓄をおこなった。これらの背景のもとに[[1929年]]からの[[世界恐慌]]が拡大し、イギリスは[[1931年]]に金本位制を離脱、アメリカを除く各国もこれに追随し、以後金本位制に代わる管理通貨制度の時代になった。イギリスの経済学者[[ジョン・メイナード・ケインズ|ケインズ]]は[[1920年代]]の半ばから、為替の安定に主眼を置く金本位制に替わって、国内経済の諸目的(物価・景気・雇用)を優先させる管理通貨制度の採用を主張していた。
 
金本位性の問題は資本となる金塊を国際市場である都市に集中させざるをえない点にもあった。とくに19世紀における国際金融の中心地であったイギリス・ロンドンや20世紀にかけてその地位を継承したアメリカ・ニューヨークには世界各国の中央銀行の支店や、各国政府の代理店が集中しており、各国の国際収支の調整はその都市に設置された各支店・代理店間での金塊の現送により調整されるシステムであった。一方でそこに集積された支店代理店の金塊はその都市を管掌している各国政府に支配されており、議会の立法下に置かれていた。
 
[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後は[[国際通貨基金|IMF体制]]のもと、金と1[[オンス]]=35ドルの平価で交換可能な[[米ドル]]を[[基軸通貨]]とし、各国通貨は米ドルとの[[固定相場制]]を採用した([[ブレトン・ウッズ体制]])。この体制下でも加盟各国は国内においては管理通貨制度を取っており、通貨当局は為替介入と金融政策により対ドル固定相場を上下幅1%以内に維持しつづけた。この制度は「金ドル本位制」「金為替本位制」などといわれる。[[1971年]]、アメリカの財政赤字、経常赤字が増大してインフレが進行、アメリカはドルと金の兌換停止に踏み切り([[ニクソン・ショック]])、これをもって金と通貨の関係は完全に切り離され、国際的にも管理通貨制度へ移行した。