「ルイ=エミール・ベルタン」の版間の差分

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== 日本での生活 ==
[[Image:Matsushima(Bertin).jpg|200px|thumb|ベルタンが設計し[[フランス]]で建造された[[日本海軍]][[巡洋艦]]「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」。[[日清戦争]]での日本海軍[[旗艦]]。]]
 
[[1885年]]に[[日本]]政府はフランスの海軍技術者を説得し、[[1886年]]から[[1890年]]の4年間、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[お雇い外国人]]としてベルタンが来日した。ベルタンは日本人技術者と船舶設計技師を育て上げ、近代的な軍艦を設計・建造し、海軍の施設を建造した。45歳となっていたベルタンにとって、海軍の全てを設計し、Jeune École思想を試す、並外れた機会となった。それはフランス政府にとっては[[日本]]の新たな工業化に影響力を持つ[[イギリス]]と[[ドイツ]]に対する重要な一撃となった。
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しかしながら、ベルタンの日本時代は政治的陰謀によって苦しめられた時期でもある。日本政府内にはフランスよりイギリスかドイツを好む派閥があり、また[[徳川幕府]]を強く支持したフランスに対する不信感が未だにあった。ベルタンの地位が脅かされる危険が一度ならず訪れた。またベルタンが支持するJeune École思想はまだ実証されておらず、日本海軍がギャンブルをしていたということもあった。
 
日本海軍を確立する彼の努力は[[1894年]]9月17日の[[黄海海戦 (日清戦争)|黄海海戦]]での勝利への決定的な貢献となった。[[旗艦]]「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」に乗艦していた日本軍[[提督]]の[[伊東祐亨]]はベルタンに以下の文面を送った。
:「艦は私たちの望みの全てを満たした。それらは我々艦隊の恐るべき1隻だった。それらの強力な兵装と知的な設計によって、我々は中国の装甲艦に対して鮮やかな勝利を収めることができた。」(イトウ・ユウコによる<ref>"La Marine moderne d'Émile Bertin", p167-170</ref>)
 
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=== 日本滞在中に設計、建造された軍艦 ===
* [[巡洋艦]]3隻 - 4,700[[トン]]の「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」と「[[厳島 (防護巡洋艦)|厳島]]」がフランスで建造され、「[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]]」が[[横須賀海軍工廠|横須賀]]で建造された。
* [[海防艦]]4隻,、4,278トン
* 小型巡洋艦2隻 - イギリスで建造された2,439トンの「[[千代田 (巡洋艦)|千代田]]」と横須賀で建造された1,800トンの「[[八重山 (通報艦)|八重山]]」