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'''ピエール=ポール・プリュードン''' ('''Pierre-Paul Prud'hon''', [[1758年]][[4月4日]] - [[1823年]][[2月16日]])は、[[フランス]]の画家。神話・寓話を元とした絵画・肖像が有名である。
 
== 生涯 ==
[[クリュニー]]で石工の父親の10番目の息子として生まれる。16歳の時[[ディジョン]]のフランソワ・ドヴォージュの絵画学校に入学する。1780年に[[パリ]]へ出てきた。1782年に[[イタリア]]に留学し、[[レオナルド・ダ・ヴィンチ]]や[[コレッジョ]]に傾倒する。1784年に[[ローマ賞]]を受賞。帰国後はパリに滞在し、[[フランス革命]]中は革命派に荷担した。初期は生活のためにデッサンや肖像画を描いた。1798年に[[サン・クルー城]]の天井画の依頼を受け、以後同じような依頼が続く。
 
活動が盛んだったのは[[フランス第一帝政]]時代以後であって、1801年から[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン1世]]より肖像画や室内装飾の依頼を受けるようになる。特に皇后[[ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ|ジョゼフィーヌ]]に認められて『マルメゾンの庭に腰掛けるジョゼフィーヌ』など多くの代表作を残した。また、ナポレオンの2番目の妻[[マリア・ルイーザ (パルマ女公)|マリー=ルイーズ]]にも認められた。
 
1821年に弟子であった女流画家Constanceコンスタンス・メイエ(Constance MayerMayer)が自殺し、大きなショックを受けた。1823年にパリで没し、[[ペール・ラシェーズ墓地]]に埋葬された。
 
彼の作風は明らかに[[新古典主義]]に影響されているが、ロマンティックな情趣を含み、優美な感覚と甘美な色彩感を持っていた。彼のキアロスクロ(Chiaroscuro、イタリア語で光と闇)の技術で人物と背景とをはっきりと浮かび上がらせるやり方は、[[スタンダール]]、[[ウジェーヌ・ドラクロワ]]、[[ジャン=フランソワ・ミレー]]、[[シャルル・ボードレール]]ら芸術家に高く評価されていた。
 
== ギャラリー ==
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{{DEFAULTSORT:ふりゆとん ひえるほる}}
[[Category:フランスの画家]]
[[Category:フランス第一帝政]]
[[Category:1758年生]]
[[Category:1823年没]]