「認識論」の版間の差分

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その後、さまざまなバリエーションがあるものの、二項対立図式そのものが放棄されるべきではないかが議論されるようになった<ref name="kamiwaka" />。
 
まず、当時の[[自然科学]]、とりわけ[[物理学]]の飛躍的な発展に背景にした二項対立図式の乗り越えがある。[[エルンスト・マッハ]]は、ニュートン力学の絶対空間の概念に形而上学の残滓が残っていると考え、自然科学は形而上学概念を排した思考以前の純粋要素である感覚からすべて説明されるべきであり、概念や法則は思考を経済化するためものにすぎないとした。このような感覚を「純粋経験」とよび、主観と客観の対立を原理的に同格とみなした。マッハの哲学は、アメリカの[[プラグマティズム]]や[[ウィーン学団]]の[[論理実証主義]]に多大な影響を与えた。ウィーン学団は、マッハの他にも、[[ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン|ウィトゲンシュタイン]]の[[論理哲学論考]]から多大な影響を受けているが、そのメンバーの多くがユダヤ人であったことから、ナチスの弾圧を受け、これから逃れるために参加者の多くは[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に亡命し、学団自体は立ち消えになったが、その考えが米英に広まり、英米系の現代的認識論に多大な影響を及ぼすことになった。
 
次いで、フッサールは、志向性という概念を用いてデカルト的な主観/客観図式を乗り越えようとしたが、生物学や心理学によって学問を基礎付けようとする考え方については逆に[[心理主義]]と呼んで厳しく批判した。フッサールは、ノエシス/ノエマ構造を本質とする志向性意識についての認識論的考察と、志向対象としての存在者への考察を現象学的還元を介して批判的に記述することにより、限定的ながらも存在論への道を開いたのであるが、[[現象学]]は、ドイツでは、フッサールの意図を超えた展開を見せ、[[マルティン・ハイデッガー]]、[[ニコライ・ハルトマン]]らによって[[存在論]]の復権の方向へと発展していった。他方で、現象学は、その後フランスで受容され、フランスの現代的認識論に多大な影響を与えることになった。