「鹿内信隆」の版間の差分

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[[1982年]]、郵政官僚出身の[[浅野賢澄]]にフジテレビ会長のポストを譲る。[[1984年]]フジサンケイグループ最高顧問の座に就いた。しかし[[1988年]]、長男の[[鹿内春雄]]が逝去したことを受け、再び議長の座に再就任。1990年10月28日死去。[[享年]]78。
 
鹿内は徹底的な合理主義者として知られ、水野が産経新聞社長に就任した際、「部長以上の管理職は全員クビにした方が良い」と進言した。「産経残酷物語」の水野でさえ、この一言には耳を貸さなかったが、のちに産経新聞社の経営が再度悪化した際、「僕の言う事を聞かなかったからこうなったんですよ」と水野を責めたという。水野から引き継いだ事業のうち、プロ野球の[[東京ヤクルトスワローズ|サンケイアトムズ]]<ref>1969年に[[ヤクルト本社]]に球団保有株式を売却してアトムズに改称、[[1970年]]にフジサンケイグループが経営から撤退しヤクルトアトムズに改称。現在は東京ヤクルトスワローズ</ref>と琵琶湖畔のスキー場・[[びわ湖バレイ|サンケイバレイ]]を手放し、[[日本フィルハーモニー交響楽団]]を解散に追い込む一方、有楽町駅前のラクチョウビルや[[夕刊フジ]](もともと水野が温めていた企画)はフジサンケイグループの収益事業として育成するなど、カネにならない物は容赦なく切り捨てた。
 
== エピソード ==