「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」の版間の差分

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| subject =
| movement = [[シュトゥルム・ウント・ドラング]]<br />[[ヴァイマル古典主義]]
| notable_works = 『[[若きウェルテルの悩み]]』(1774年)<br />『[[ヴィルヘルム・マイスターの修行時代]]』(1796年)<br />『[[ヘルマンとドロテーア]]』(1798年)<br />『[[親和力]]』(1809年)<br />『[[西東詩集]]』(1819年)<br />『[[{{仮リンク|ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]|en|Wilhelm Meister's Journeyman Years}}』(1821年)<br />『[[ファウスト]]』(1806年-1831年)
| awards =
| debut_works = 『[[ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン (ゲーテ)|鉄の手のゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン]]』(1773年)
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<!--切らないように-->その文学活動は大きく3期に分けられる。初期のゲーテは[[ヨハン・ゴットフリート・ヘルダー|ヘルダー]]に教えを受けた[[シュトゥルム・ウント・ドラング]]の代表的詩人であり、25歳のときに出版した『若きウェルテルの悩み』でヨーロッパ中にその文名を轟かせた。その後[[ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ大公国|ヴァイマル公国]]の宮廷顧問(その後[[枢密院|枢密顧問官]]・[[政務長官]]つまり[[宰相]]も勤めた)となりしばらく公務に没頭するが、[[シャルロッテ・フォン・シュタイン|シュタイン夫人]]との恋愛やイタリアへの旅行などを経て古代の調和的な美に目覚めていき、『[[エグモント (戯曲)|エグモント]]』『ヘルマンとドロテーア』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』などを執筆、[[フリードリヒ・フォン・シラー|シラー]]とともにドイツ文学における古典主義時代を築いていく。
 
シラーの死を経た晩年も創作意欲は衰えず、公務や自然科学研究を続けながら『[[親和力]]』『[[{{仮リンク|ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]|en|Wilhelm Meister's Journeyman Years}}』『[[西東詩集]]』など円熟した作品を成した。大作『ファウスト』は20代から死の直前まで書き継がれたライフ・ワークである。ほかに旅行記『[[{{仮リンク|イタリア紀行]]|en|Italian Journey}}』、自伝『[[詩と真実]]』や、自然科学者として「植物変態論」『[[色彩論]]』などの著作を残している。
 
== 生涯 ==
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[[1786年]]、ゲーテはアウグスト公に無期限の休暇を願い出、9月にイタリアへ旅立った。もともとゲーテの父がイタリア贔屓であったこともあり、ゲーテにとってイタリアはかねてからの憧れの地であった。出発時ゲーテはアウグスト公にもシュタイン夫人にも行き先を告げておらず、イタリアに入ってからも名前や身分を偽って行動していた。出発時にイタリア行きを知っていたのは召使のフィリップ・ザイテルただ一人で、このことは帰国後シュタイン夫人との仲が断絶する原因となった。
 
ゲーテはまずローマに宿を取り、その後[[ナポリ]]、[[シチリア|シチリア島]]を訪れるなどし、結局2年もの間イタリアに滞在していた。ゲーテはイタリア人の着物を着、イタリア語を流暢に操りこの地の芸術家と交流した。その間に友人の画家ティシュバインの案内で美術品を見に各地を訪れ、特に古代の美術品を熱心に鑑賞した。午前中はしばらく滞っていた文学活動に精を出し、[[1787年]]1月には『イフィゲーニエ』をこの地で完成させ、さらに『タッソー』『ファウスト断片』を書き進めている。また旅行中に読んだ[[ベンヴェヌート・チェッリーニ]]の自伝を帰国後にドイツ語に訳しており、さらに30年後にはイタリア滞在中の日記や書簡をもとに『{{仮リンク|イタリア紀行|en|Italian Journey}}』が書かれている。
 
[[1788年]]にイタリア旅行から帰ったゲーテは芸術に対する思いを新たにしており、宮廷の人々との間に距離を感じるようになった。ゲーテはしばらく公務から外れたが、イタリア旅行中より刊行が始まった著作集は売れ行きが伸びず、ゲーテを失望させることになる。なお帰国してから2年後の[[1790年]]に2度目のイタリア旅行を行なっているが、1回目とは逆に幻滅を感じ数ヶ月で帰国している。
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晩年のゲーテは腎臓を病み、1806年より頻繁に[[カルロヴィ・ヴァリ|カールスバート]]に湯治に出かけるようになる。ここで得た安らぎや様々な交流は晩年の創作の原動力となった。1806年には長く書き継がれてきた『ファウスト』第1部がようやく完成し、コッタ出版の全集に収録される形で発表された。[[1807年]]には[[クリスティアーネ・ヘルツリープ]]という18歳の娘に密かに恋をし、このときの体験から17編のソネットが書かれ、さらにこの恋愛から二組の男女の悲劇的な恋愛を描いた小説『[[親和力]]』([[1809年]])が生まれている。またこの年から自叙伝『[[詩と真実]]』の執筆を開始し、翌年には色彩の研究をまとめた『[[色彩論]]』を刊行している。[[1811年]]『詩と真実』を刊行。[[1816年]]、妻クリスティアーネが尿毒症による長い闘病の末に先立つ。
 
[[1817年]]、30年前のイタリア旅行を回想しつつ書いた『[[{{仮リンク|イタリア紀行]]|en|Italian Journey}}』を刊行した。最晩年のゲーテは文学は世界的な視野を持たねばならないと考えるようになり、エマーソンなど多くの国外の作家から訪問を受け、[[ジョージ・ゴードン・バイロン|バイロン]]に詩を送り、[[ヴィクトル・ユーゴー|ユーゴー]]、[[スタンダール]]などのフランス文学を読むなどしたほか、[[東洋|オリエント]]の文学に興味を持って[[クルアーン|コーラン]]や[[ハーフェズ]]の詩を愛読した。このハーフェズに憧れてみずから執筆した詩が『[[西東詩集]]』(1819年)である。
 
[[ファイル:Fritz Fleischer-Mehr Licht!.jpg|thumb|280px|ゲーテの死(フリッツ・フライシャー画、1900年)]]
[[1821年]]『[[{{仮リンク|ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]|en|Wilhelm Meister's Journeyman Years}}』刊行。『修行時代』の続編であり、この作品では夢想的な全体性を否定し「諦念」の徳を説いている。またこの年、ゲーテは[[マリアーンスケー・ラーズニェ|マリーエンバート]]の湯治場で[[ウルリーケ・フォン・レヴェツォー]]という17歳の少女に最後の熱烈な恋をした。[[1823年]]にはアウグスト公を通じて求婚するも断られており、この60歳も年下の少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれた。
 
[[1830年]]、一人息子アウグストに先立たれる<ref>アウグスト・フォン・ゲーテは1817年にオティリーという女性と結婚し3人の子供をもうけているが、いずれも子を成しておらず、1885年に最後に残った孫ワルター・フォン・ゲーテが死んでゲーテ家は途絶えた。病床のゲーテを看取ったのはオティリーである。</ref>。ゲーテは死の直前まで『ファウスト』第2部の完成に精力を注ぎ、完成の翌[[1832年]][[3月22日]]にその多産な生涯を終えた。「もっと光を!(Mehr Licht!)」が最後の言葉と伝えられている<ref>主治医に言った言葉とされるが、単に部屋が暗いので明かりを入れて欲しいという程度の意味だったとも言われる(池内紀『ゲーテさんこんばんは』)。</ref>。墓は{{仮リンク|ヴァイマル大公墓所|de|Weimarer Fürstengruft}}(Weimarer Fürstengruft)内にあり、シラーと隣り合わせになっている。
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*[[ヴィルヘルム・マイスターの修業時代]](''Wilhelm Meisters Lehrjahre''、1796年)
*[[親和力]](''Die Wahlverwandtschaften''、1809年)
*[[{{仮リンク|ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代]]|en|Wilhelm Meister's Journeyman Years}}(''Wilhelm Meisters Wanderjahre''、1821年)
 
=== 戯曲 ===
213行目:
*[[色彩論]](''Zur Farbenlehre''、1810年) - 科学論文
*[[詩と真実|わが生涯より 詩と真実]](''Aus meinem Leben: Dichtung und Wahrheit''、1811年) - 自叙伝
*[[{{仮リンク|イタリア紀行]]|en|Italian Journey}}(''Italienische Reise''、1816年-1817年) - 旅行記
 
== ギャラリー ==