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== 歴史 ==
[[明治時代]]、四面を海に囲まれた[[大日本帝国]]は外敵を防ぐ為、全国に砲台を整備する必要に迫られていた。{{和暦|[[1886}}年]](明治19年)には[[陸軍省]]が全国に砲台を建築する事を計画し、関門海峡でも{{和暦|[[1887}}年]](明治20年)[[9月]]より、[[田の首砲台]]・[[田向山砲台]]を起工し要塞の建設が開始された。この時代の防衛は、敵が海岸付近まで攻めてきた所を船と協力して撃滅する、まさに「陸に砲台、海に船」といったものであった。その為、陣地は関門海峡の沿岸に集中しており、多くの大砲が設置された。<br />
{{和暦|[[1895}}年]](明治28年)[[4月]]には[[東京湾要塞]]司令部と共に下関要塞[[要塞司令部|司令部]]が設置された。その後、[[1899年]]には[[要塞地帯法]]により下関要塞地帯と名付けられ、写真撮影等が禁止された。重要な拠点であった下関要塞は重要な軍事機密でもあった。{{和暦|[[1893}}年]](明治26年)には[[イギリス|英国]][[汽船]][[クレーブランド号]]の「[[乗組員]]」が下関要塞の[[古城山砲台]]に侵入、施設図面を記録し逮捕されるという事件がおきている。<br />
[[日露戦争]]が終わり、平和な時代になると要塞の整理が行われ、特に街中にあった敷地の一部が払い下げられた。現在では市民の憩いの場である老松公園もこの敷地を使ったものである。昭和に入ると日本と[[朝鮮]]、[[満州]]との間を守る為、[[玄界灘]]の島々に砲台を設置し、[[壱岐要塞]]や[[対馬要塞]]とも協力して[[朝鮮海峡]]全体を防衛するようになった。また、関門海峡一帯には空襲を防ぐ為に[[高射砲]]を多く設置した。小倉は[[小倉陸軍造兵廠]]を持つ軍都であったので激しい空襲も行われたが、要塞は終戦までその任務を全うした。<br />
戦後、[[1974年]]には地元の有志が九州側の陣地跡に石碑を建て、歴史を今に伝えている。