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== 歴史 ==
[[明治時代]]、四面を海に囲まれた[[大日本帝国]]は外敵を防ぐ為、全国に砲台を整備する必要に迫られていた。
[[日露戦争]]が終わり、平和な時代になると要塞の整理が行われ、特に街中にあった敷地の一部が払い下げられた。現在では市民の憩いの場である老松公園もこの敷地を使ったものである。昭和に入ると日本と[[朝鮮]]、[[満州]]との間を守る為、[[玄界灘]]の島々に砲台を設置し、[[壱岐要塞]]や[[対馬要塞]]とも協力して[[朝鮮海峡]]全体を防衛するようになった。また、関門海峡一帯には空襲を防ぐ為に[[高射砲]]を多く設置した。小倉は[[小倉陸軍造兵廠]]を持つ軍都であったので激しい空襲も行われたが、要塞は終戦までその任務を全うした。<br />
戦後、[[1974年]]には地元の有志が九州側の陣地跡に石碑を建て、歴史を今に伝えている。
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