「ルートヴィヒ1世 (バーデン大公)」の版間の差分

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'''ルートヴィヒ1世'''('''<span lang="de" xml:lang="de">Ludwig I.</span>''', [[1763年]][[2月9日]] - [[1830年]][[3月30日]])は、[[バーデン (領邦)|バーデン大公国]]の第3代[[大公]](在位:[[1818年]] - 1830年)。初代バーデン大公[[カール・フリードリヒ (バーデン大公)|カール・フリードリヒ]]とその最初の妃であった[[ヘッセン=ダルムシュタット方伯領|ヘッセン=ダルムシュタット]][[ヘッセンの統治者一覧|方伯]][[ルートヴィヒ8世 (ヘッセン=ダルムシュタット方伯)|ルートヴィヒ8世]]の娘[[カロリーネ・ルイーゼ・フォン・ヘッセン=ダルムシュタット|カロリーネ・ルイーゼ]](1723年 - 1783年)の息子で、第2代大公[[カール (バーデン大公)|カール]]の叔父。[[カールスルーエ]]で生まれた。
 
1818年[[12月8日]]に甥のバーデン大公カールが死去し、彼の息子が全て夭逝していたため大公位に即いた。[[1820年]]にルートヴィヒ1世は[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]に多額の寄付を行い、財政難で廃校の危機に陥っていた同校を救った。フライブルク大学の正式名称「アルブレヒト=ルートヴィヒ大学」の「ルートヴィヒ」はこれに感謝して加えられたものである。また[[1825年]]には[[ドイツ]]最古の工科大学である[[カールスルーエ大学]]を創設した。
 
1830年3月30日、カールスルーエで死去した。ルートヴィヒ1世には嫡子がおらず、他に同母兄弟もいなかったため、バーデン大公家は断絶の危機に直面していた。結局、[[貴賎結婚]]であった父カール・フリードリヒと彼の後妻ルイーゼ・カロリーネ・ガイヤー・フォン・ガイヤースベルク([[w:Luise Karoline Geyer von Geyersberg|Luise Karoline Geyer von Geyersberg]], 1768年 - 1820年)との間に生まれた異母弟の[[レオポルト (バーデン大公)|レオポルト]]が大公位継承者となった。