「ヒャルマル・シャハト」の版間の差分

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1903年に[[ドレスナー銀行]]に入社し、経済室長となった。1908年には副頭取となった<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93">ヴィストリヒ、93頁</ref>。1916年には私立銀行の「[[ドイツ国家銀行]]」([[:de:Nationalbank für Deutschland|de]])の頭取となる<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93"/>。[[第一次世界大戦]]中には通貨偽造スキャンダルに巻き込まれた<ref name="Hamilton331"/>。
 
一次大戦後の[[1918年]]には[[ドイツ民主党]](DDP)の共同創設者となった<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93"/>。1922年にはドイツ国家銀行をダルムシュタット銀行と合併させて「[[ダルムシュタット及び国家銀行]]」([[:de:Darmstädter und Nationalbank|de]]、ダナート銀行)を設立させた<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93"/>。
 
=== インフレとライヒ通貨委員就任 ===
1923年1月11日に「ドイツ政府が[[ヴェルサイユ条約]]に定められた賠償金支払義務に不履行があった」として[[フランス軍]]と[[ベルギー軍]]は[[ルール問題|ルール地方を占領]]した<ref name="林97">林、97頁</ref><ref name="阿部91">阿部、91頁</ref>。このフランスの横暴にドイツでは右翼から左翼に至る全ての政党が憤慨し、[[ヴィルヘルム・クーノ]]内閣が主導してルール地方の工場停止など「消極的抵抗」を行ったが、その影響でドイツの[[マルク (通貨)|マルク]]は壊滅的な暴落をして、ドイツは[[ハイパーインフレ]]になってしまった<ref name="阿部91"/>。
 
1923年8月にクーノ政権は崩壊。[[ドイツ人民党|人民党]]、[[中央党 (ドイツ)|中央党]]、[[ドイツ社民党|社民党]]、[[ドイツ民主党|民主党]]の連立で[[グスタフ・シュトレーゼマン]]内閣が成立した。シュトレーゼマンは「売国奴」の批判を受けようともルール地方占領への「消極的抵抗」を断固中止させ、マルクを安定させる道を選んだ<ref name="林104">林、104頁</ref>。マルクの立て直しのためにシャハトは民主党内で[[レンテンマルク]]の発行を主張した<ref name="林105">林、105頁</ref>。蔵相[[ルドルフ・ヒルファーディング]]や[[ハンス・ルター]]のもとで新マルク導入が決定されたものの更迭されたため<ref>Deutsches Historisches Museum, Biographie: Rudolf Hilferding. http://www.dhm.de/lemo/html/biografien/HilferdingRudolf/index.html</ref>、1923年11月13日にシャハトは[[フリードリヒ・エーベルト]]大統領よりライヒ通貨委員(Reichswährungskommissar)に任命された<ref name="LeMO"/><ref name="ヴィストリヒ93"/><ref name="阿部105">阿部、105頁</ref>。[[中央銀行]]である[[ドイツ帝国銀行|ライヒスバンク]]総裁[[ルドルフ・ハーヴェンシュタイン]]([[:de:Rudolf Havenstein]])がその役割を果たすべきところだったが、彼は政府と経済人の信用を完全に喪失しており、にもかかわらず当時の総裁職は帝国宰相任命制・終身制であった。ヴェルサイユ条約によってドイツ政府はライヒスバンク総裁を独断で任免することがなかったので、結局新しいポストを急遽作ったのであった<ref name="阿部105"/>。
 
レンテンマルクは[[金本位制]]を前提としながらも、ひとまずドイツの不動産や商工業資産を基礎として出された補助通貨であり、1923年11月20日から1兆マルクは1レンテンマルクで交換された<ref name="阿部106">阿部、106頁</ref>。これにより奇跡的にマルクの信用は回復した。翌1924年には金本位の[[ライヒスマルク]]に置き換えられた<ref name="林104-105">林、104-105頁</ref>。
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結局シャハトは6月7日には[[ヤング案]]を受け入れた<ref name="阿部154">阿部、154頁</ref>。ヤング案によりドイツの賠償金額は大幅に減らされた。しかしドイツはこの後も59年にわたって賠償金を払わねばならないことが約定された<ref name="阿部155">阿部、155頁</ref>。これは[[国家社会主義ドイツ労働者党]](ナチ党)をはじめとするドイツ国内の国粋主義運動を成長をさせる結果となった<ref name="阿部155"/>。
 
[[1929年]][[10月24日]]、アメリカ・[[ニューヨーク]]の[[ウォール街]]の株式市場が[[ウォール街大暴落 (1929年)|大暴落]]し、[[世界大恐慌]]が発生した<ref name="林146">林、146頁</ref>。ドイツも失業者であふれかえった。ただちに失業保険法が改正されたが、それだけではドイツの財政の均衡の回復はできず、[[ルドルフ・ヒルファーディング]]蔵相と大蔵次官[[ヨハネス・ポーピッツ]]は外債を発行しようと決意し、アメリカの銀行がこれに応じようとしたが、ドイツ帝国銀行総裁として政府から独立した立場にあるシャハトが赤字は租税で賄うべしとして反対を表明。外債を引き受けようとしていたアメリカ銀行も離れてしまい、1929年12月21日にはヒルファーディングとポーピッツは辞職させられる事態となった<ref name="阿部160">阿部、160頁</ref>。
 
[[File:Bundesarchiv Bild 183-2008-0826-502, Berlin, Empfang im Hotel "Esplanade".jpg|thumb|250px|1930年のドイツ・ベルリン。中央がシャハト。]]
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再軍備で軍事費が増大すると、国民のインフレの不安を持たせずに軍事費を調達する方法として[[メフォ手形]]([[:en:Mefo bills|en]])を導入した。メフォ手形は国防軍から受注を受けた企業が手形の振出人となり、メフォと略称される会社が引受人となり、政府が手形支払いの義務を負い、ライヒスバンクが手形の再割引を保証する手形であった。1934年から1937年の間にメフォ手形の総額は204億マルクにも上った<ref name="成瀬232">成瀬・山田・木村、232頁</ref>。しかしメフォ手形が急増する1930年代半ば以降になるとインフレは避けがたくなり、1938年にはメフォ手形は停止された<ref name="成瀬233">成瀬・山田・木村、233頁</ref>。
 
[[四カ年計画]]全権[[ヘルマン・ゲーリング]]と摩擦が増え、1937年11月に経済相と全権委員を解任された。ただし代わりに無任所相に任じられ、形式的な閣僚の地位はその後もしばらく保持した。またライヒスバンク総裁職はシャハトが続けた。しかし1939年1月7日にシャハトはヒトラーに軍事費が増えすぎたせいでインフレーションが起こっているとしてこれ以上の軍拡と領土拡大政策を中止すべきと進言した。ヒトラーはシャハトを嫌うようになり、1939年1月19日にはツ国立銀行ヒスバンク総裁からも解任された<ref name="成瀬403">阿部、403頁</ref>。無任所相の地位は1943年1月に失った<ref name="ヴィストリヒ94"/>。
 
しかし[[1944年]]7月20日に、[[クラウス・フォン・シュタウフェンベルク]]大佐を中心にした[[ヒトラー暗殺計画|ヒトラー暗殺未遂]]事件が発生すると、連座していたとして1944年7月29日に逮捕されて[[ラーフェンスブリュック強制収容所]]、ついで[[フロッセンビュルク強制収容所]]に“特殊囚人”として収容された。1945年4月に[[アメリカ軍]]によって解放された<ref name="ヴィストリヒ94"/>。